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2012年5月

2012年5月30日 (水)

「三人姉妹」の稽古が始まりました。

「三人姉妹」の稽古が始まりました。

1900年から1901年。
執筆から上演に向けてのあなたのことを、知れば知るほど、この作品は多面的な鏡面になって、わたしの深読みを跳ね返し、逆に現在の自分たちの生活を考えさせたりします。

医者として、自分の人生が長く保つものではないことを知っていたということ。
結婚しない人生を貫いてきたのに、オリガという女性と恋をしていたということ。

あなたが世界を見る目は、複眼でしたね。

三人姉妹が、ナターシャが、アンドレイが、ヴェルシーニンが、トゥーゼンバフが、ソリョーヌイが、クルイギンが、そして何よりチェブトィキンが、その頃のあなたから生まれ出たことを体の芯から感じる日々が始まっています。

俳優たちは、あなたのことを、そんなには知りません。
自由に……何とも生き生きと、あなたの人物たちと出会おうとしています。
俳優はどこまでも自分勝手で、どこまでも尊敬できる人種です。
彼らの中で、あの人物たちが生き始めるのを見守るのは、どれほどか刺激的で幸せなことです。

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今日は、うまくいかなかった女優と、稽古後、電話で話しました。
あなたの時代と違って、電話とかメールとか、コミュニケーションツールがたくさんある反面、言葉というコミュニケーションツールを上手く使えない人が多い時代です。
ぶつかっても、誤解しそうになっても、まずは「言葉」を使って渡り合ってみるのが一番です。
稽古場では、「否定」の言葉しか彼女にあげなかったので、電話を使って、「否定」の裏に眠っていた愛情を、思い切りぶつけて、明日の活力にしてもらいたかったのです。

演劇と、俳優を愛している間に、どうも自分の人生を支えてくれるような愛とは、わたしは縁遠くなりつつあります。

それでも……。

あなたがオリガと結婚を決めるまでの手紙の数々、何度も読みましたが、あなたの中に棲みついていた倦怠にも似た孤独は、まだ幾許もわたしはわかっていない気がします。
もう、あなたよりずっとずっと歳をとっているというのに。

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アンリ・トロワイヤという、5年前に亡くなった作家が、あなたの評伝を書いています。
文学者としても名高い人でしたが、伝記文学作者として、人気でした。ゴーゴリや、トルストイや、ドストエフスキー、イワン雷帝まで書いています。
それは伝記文学というフィクションなのだと知りながらも、そこに生きるあなたがわたしは大好きです。
クプーリンという若手作家が、三人姉妹執筆後くらいに、あなたを訪ねる。
すでに肺の病が重く、咳に苦しむ毎日だったあなたですが、彼はこう感慨している。
「僕がこれまで会うことを許された、もっとも美しく、もっとも繊細で、もっとも感性豊かな人物に出会った」と。
文学の仕事に対する慎重さと同様、健康に関してくどくどと愚痴をこぼすような真似はしなかった。
極度の節度を保つことは、ちゃんとした教養人の表れだ、とチェーホフはみなしていた、と。

あなたは、体調が悪くても、しかめ面をしたり、金切り声を張り上げたり、悲劇的なことを言ったりするのを嫌悪していた、と。

演劇が現実生活に似るのは好んでも、現実生活が芝居めいてくるのは嫌っていた、と。

もう一つ嫌悪していた結婚というものを、自分でしてしまうという……本当に、この「三人姉妹」という作品が出来上がった時期のあなたの精神たるや、どんなものであったのか?

深い孤独と、自制心、厭世観、諦観。裏腹に、世界と人間への深い愛情。オリガとの愛。

すでにこの世から消えてしまった時間の痕跡を、稽古の後の深夜に探るのが、ちょっとした喜びです。

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わたしは、1961年に生まれました。
あなたは1860年。あなたが作中で登場人物たちに語らせる、100年後に生まれてきた者です。

ヴェルシーニンが語るように、さて、わたしたちは幸せでしょうか?
わたしたちは人生を、言葉で、行動で、どう裁断するのでしょうか?

それは、これからの稽古で感じていくことでしょう。


……あの。チェーホフさん。ひとつ聞いていいですか?

稽古が始まった大事な時期だというのに、
わたし、昨日から深い咳に苦しんでいます。
どうしたらいいでしょう?

きっとあなたは、チェブトィキンみたいに言うのでしょうね。
「何てことを聞くんだ、そんなことはもう忘れたよ!」と。

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2012年5月18日 (金)

ヴィソツキーの夜。

生きていると、暮らしていると、まあ細々とがっかりすることがあって、
今日はたまたま、そんなことのぐっと寄り集まった1日だった。
ここのところ、「三人姉妹」上演に向けての事務作業に追われて、潤いに欠けること甚だしい日々であったから、少しリセットが必要と感じた。
今日の夜は、事務をしない!と決めた。
しっかり風呂の掃除をしてから、きれいなお湯に身を沈めて、チェーホフ関連の書籍を読む。
ひたすらにバリオスのギター曲を聞きながら、風呂上がりにまた読書。
そして、演出プランを夢想するうちに、ウラジーミル・ヴィソツキーのことを思っていた。

ヴィソツキーのことを教えてくれたのは、早稲田で授業をとっていた、故、宮澤俊一先生だった。
日本でたった一枚発売されていた彼のLPの、訳詞と解説をしていたのは宮澤先生。
先生の興した群像社の書籍は、わたしの書棚に何冊も並んでいる。

懐かしい気持ちで、久しぶりに、ヴィソツキーのロシア語サイトを開いてみると、かつてよりぐぐっと充実していて、彼の歌に恋して過ごした青春の日々が蘇ってくる。

彼の舞台での演技は、リュビーモフ演出の「ハムレット」が名高いけれど、わたしは、「桜の園」のロパーヒンを、彼がどんな風に演じたか、タイムスリップして、何とか観たい。観たい。

ヴィソツキーのことは、改めて書こう。
ロシアの英雄、わたしの永遠の詩人。
あのしわがれた魂の呼び声と、かき鳴らすギターは、わたしの20代の孤独を、どんなに彩ってくれたことか。

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2012年5月13日 (日)

「三人姉妹」の翻訳を巡って。

「三人姉妹」の上演台本が、ひとまず出来上がった。

今回、基本的に、神西清さんの訳を使うのだけれど、「結婚披露宴会場で演じられる」という今回の趣旨、演出意図に沿って、また、俳優の個性によって、少しずつ手を加えている。
早稲田の第2外国語で履修したロシア語の知識を、なんとかなんとか使って、原文の意を汲んで、言葉を選んでいった。
ああ、高い学費を出してもらって大学に通ったのに、わたしはなんて劣等生だったんだろう!

それはさておき。

今日気がついたことは。

詩人ででもある神西さんの訳があまりに美しいので、わたしは今まで、神西訳の「三人姉妹」しか知らなかったことだ。
かつて、演出助手で「三人姉妹」についた時、マイケル・フレインの英語訳から訳した小田島さんのものも使ったし、中村白葉訳、湯浅芳子訳、松下裕訳、浦雅春訳、福田逸訳、どれも読んでいるのだけれど、やっぱりわたしにとっては、神西さんがすべてで、あらゆる台詞は、神西さんの選んだ言葉で耳に聞こえてくる。

言ってみれば、わたしは、本当に「三人姉妹」を知っていたわけではなかったんだ。

今日、気づいたこと、いろいろ。
時間に限りがあるので、第一段階では、原文にあたったのは、気になるところだけ。
でも、稽古場で、もっともっと気づきはあるだろう。
これからわたしは、ようやく、チェーホフの「三人姉妹」と出会えるんだな。

それにしても、ロシア文学の翻訳って、本当に特殊な日本語。
ロシア語翻訳文体って、昔から、ある。

米川正夫訳のドストエフスキーに慣れ親しんだわたしは、(学生時代、阿佐ヶ谷の古本屋で全集を9800円で見つけて小躍りしたっけ)亀山郁夫さんの訳は面白くて読みやすいのに、わたしにとっては何か物足らず……ああ、伝統的なロシア語翻訳文体でないと満足できない、趣味人になってしまったのだなと思った。
というか、それは人生の中で、得がたい、連続した経験だったのだと思う。

さて。
今回、わたしは、どんな言葉で「三人姉妹」を語っていくだんろう。
こうして、今は、戯曲と向き合う時間。
でも、そのうち、俳優という生きた文体と出会う。
どんな化学反応が起こっていくのか、もう今から楽しみでならない。

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2012年5月10日 (木)

モスクワへ……。

1900年8月9日、スタニスラフスキーに執筆を約束した「三人姉妹」の第一稿は10月16日に脱稿しました。
当時親交の深かったM・ゴーリキーに、手紙でこう書いています。

『三人姉妹』の執筆は、ひどく難航しました。三人の女主人公がいて、その三人がそれぞれ個性をもっていなければならず、三人とも将軍の娘なのです。舞台はペルミという地方都市に設定してあります。それに軍人社会や砲兵隊など……

ペルミという町はモスクワの東に位置する地方都市。地図で眺めると、直線距離で北海道北端から東京くらい。
三人姉妹が、モスクワにあらゆる夢、未来と希望を託したにも関わらず、そこにどうしてもたどり着けないことは、とても有名。
でも、広大なロシアを思えば、北海道から東京って、微妙に、近い訳です。
手が届きそうで届かない、彼女たちの夢。
同じような夢を、わたしもたくさん持っている。
たくさん、この手のひらからこぼして生きてきた……なんて、センチメンタルなことを、つい考えてしまいます。
マーシャみたいに、「失敗の人生……」ってつぶやきたくなる時もあるけれど、この諦観・厭世観と背中あわせに、明日を溌剌と生きたいという欲望があるんです。

トゥーゼンバフの結婚申込を受けようと決心するイリーナも、きっと、相反する思いをたくさん抱えた中で、あの、一筋の光を受け入れたのでしょう。モスクワへと続く、光。
わたしも、10代から、ことある毎に、心の中で、「モスクワへ、モスクワへ、モスクワへ……」と叫んできたひとりです。


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2012年5月 9日 (水)

前略。

チェーホフ様。昨日は春の宵から朝方まで、あなたと過ごして幸せでした。
でも今夜は、フライヤーとか台本印刷とか選曲とか小道具調達とかスケジュール作成とか大量のメール連絡とかで……あなたとはいられません。
演劇は、今も昔も大変ですね。
でも、あなたとの時間を思い描いて、もう少し頑張ります。

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2012年5月 8日 (火)

1900年8月9日より。

ずっとチェーホフを愛してきて、ずっと読み続けてきて、自分は演出家だというのに、
まだチェーホフを演出したことがなかった。
それがとうとう。この7月に「三人姉妹」を上演する。

わたしは、チェーホフを愛しすぎ、知り過ぎているので、現代的にテキストを解体して……なんてことは、一切興味がない。
自分の現在を語るために、彼のテキストを解体する意味などない。
大事なのは、彼がかつて生きた時間と実感、わたしが今生きている時間と実感との間に、接点を見いだすこと。
言ってみれば、彼とどうつながるか、時空を越えて、どう愛しあえるかって話だ。
でも、今回は、はじめてのチェーホフだというのに、
「結婚披露宴会場で演じられる」という冠詞がついてしまう、企画公演でもあるのだ。
わたしは、そこに望んで突っ込んでいった。
つまりは、オーソドックスな作品にはならないよって側道に。

そうなると、もっと彼を知りたくなった。

創作ノートやメモを再読した後、
夜になって、彼の妻、オリガ・クニッペル宛の書簡を読み始めた。
まだ結婚はしておらず、遠距離恋愛中という時期だ。
1900年8月9日、スタニスラフスキーがタガンロークのチェーホフを訪れて、9月いっぱいを目処に新作戯曲をモスクワ芸術座に書き下ろす約束をしている。
「三人姉妹」が生まれようとしている日から。
来客に集中を削がれたり、体調を崩したり、モスクワに旅立とうとしたらインフルエンザにかかったりしながらも、10月、第一稿をあげてモスクワでの稽古に通い。
12月、「三人姉妹」を手直しし書き上げるために、ヨーロッパ旅行へ出る。
今夜の書簡は、12月15日、ニースの海で陽射しにまみれた後、3幕の浄書をするところまで。
そこで、本を閉じた。

今日、わたしは、少し知恵熱を出して、ふさぎの虫にとりつかれていた。
目の前の仕事へのやる気は、昨日までとちっとも変わらず、いつでも動き出せる体と精神は持ち合わせているはずなのに、1日を、少し斜に構えて過ごした。
そんな日に、今読める、チェーホフの何もかもを読んでしまいたいという欲求に駆られて、今日は1日仕事をストップして、読書に明け暮れた。

わたしの淋しさは、チェーホフの書簡を読むうち、どこかに消えてしまった。
果てなく大きな空洞が、100年を越えて、文字から立ち上がってきて、わたしの淋しさなど掻き消してしまったのだ。
世界に親和力を持って歩み寄ることと、厭世することの間に、いる、その感じ。

ヴェルシーニンとトゥーゼンバフの交わす哲学論には、この秋から冬のチェーホフの生活や体調が、少なからず影響を与えているに違いない。

===

オリガの気持ちになって読んでいると、ちょっとした疑似恋愛的な幸福感も味わえる。
彼のラブレターは、甘く、それでいて屈折の苦みも時折添えて、いたいけな青年のようであったり、人生の終盤を迎えた老人のようであったり。

こうして、わたしのチェーホフ漬けの日々が、また始まった。


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