ふたたびの。
親愛なるアントン。
ふたたび、わたしのテーブルの上には、あなたの著作が積まれています。
小口には、無数の付箋が見えます。
昨年の7月「三人姉妹」を上演して、約一年、また、わたしはあなたのところに帰ってきました。
結婚披露宴会場に魔法のように現れたプローゾロフ家の居間を、こんな風に評してくれている美しい文章を見つけました。
http://j.mp/156oCuf
自分の目に見えていたものが、確かに、他者の目にも映っていたのだと信じられるのは、幸せなことです。
これから。
今度は。
あなたの生きた時間、あなたの言葉を借りて、わたしは新しい物語を編もうとしています。
44歳で亡くなったあなたを忍んで、わたしは44歳の誕生日を迎えた後に、全集で読めるあなたの短篇501篇を、2ヶ月かけて一気に読みました。
ちょうど仕事がない時期でしたので、お風呂と食事の時以外は、ずっとあなたと過ごしていたように思います。501篇すべてのあらすじと、所感の記録は、膨大なページ数になっていました。
その2ヶ月で見つけていたものを、8年経って、ようやく舞台ののせようと考えているのです。
今、またふたたび、テーブルの上に、1巻から11巻を積み上げました。
8月15日は、日本の終戦記念日でした。
この時期にはわたしも意識的に戦争という悪しき記憶の本を手に取り、映像を目にします。
あなたの「グーセフ」(筑摩書房「チェーホフ全集」8巻所収)は、何度読んでも胸がつまります。役に立たなくなった従卒が、体を病んだ帰還兵が、帆布に縫い込まれたぬいぐるみになって海に沈んでいく時のあなたの描写。
あまりの痛ましさと、あまりの美しさに、わたしは混乱してしまって。
シニカルなあなたと、慈愛に満ちたあなたの、二つの目。
ああ、わたしはまた、あなたと過ごすのだと胸を高鳴らせているんです。
あなたは、「追放されて」の中で、哀れな韃靼人に、こう語らせましたね。
「なんにも要らない」という人生が、しあわせなわけはない。生きていると、「要る」と感じて、手に入らない不幸はたくさんあるが、「要る」と感じることさえ許されない人生は、石や粘土に等しい。
たとえ手に入らなくても、求め続けることにします。
これが、始まりです。
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