本日は稽古OFF。嵐の夜です。巷では風がふくとTMレボリューションごっこが熱いですが、文学少女としてはここはやはり「嵐が丘」ごっこと洒落こみたいところです。
「おお、心の恋人よ、今度こそいうことを聞いておくれ!キャサリーン!」
しかし、思います。「三人姉妹」もそうですが、外国の戯曲や小説を読むたびに思います。
外人・・・・やつらは・・・テンションが高い、熱い、そして濃い。
やはり先祖代々肉食ってた民族は違います。身も心もアジア圏な草食系の私には、そのテンションがごくたまにうらやましく、しかし大体疎ましい。
昔、新劇の舞台で、外人を演じるために「つけ鼻」で鼻を高くした、という逸話を聞いたことがあります。私は想像するのです。その新劇の団体は・・・・・きっとテンション無理だからせめて鼻だけでも高くしたのではないかと。
最初にその逸話を聞いた時には笑ってしまった私ですが、そう考えると、なんだかその背延び感が涙ぐましいような気がしないでもないです。
しかし誰も、誰ひとりつっこまなかったのでしょうか。だれか空気の読めない若手が
「え、マジすか?先輩、その鼻、まじすか?!」
とか、うっかり言わなかったのでしょうか。そもそも新劇の座組にそんなKYがいないのでしょうか。それとも、実はハリウッドの特殊メイクばりに出来がよくて自然だったのか、似合っていたのか、その人に。いや、そんなことはないとおもいます。
多分、先入観というやつじゃないかと、私はにらんでいます。
「私は今度外人を演じる。外人は鼻が高いものだ。だからつけ鼻をしなくては。」
って、本人も、周りも思っていたのではないかと。だから、「つけ鼻」を誰もおかしいとは思わなかった。外人は鼻が高い、外人を演じるなら鼻を高くすべきだ、と、皆思っていたから。
でもね、落ち着いて考えれば、
「俺は今日、これで笑いをとりにいく!」
というつもりでもなければ(そのつもりも大変微妙なあれではありますが)
「つけ鼻」つけてるのは、やっぱり変だと思うんですよ。ていうか・・・・・若干鼻梁を高くしたところで、外人、なれないじゃないですか。だれかが一言、言えばよかったんです。
「ていうか、ぶっちゃけ、つけ鼻つけても俺たち外人にはなれなくね?」って。
ああ、彼らに、時代に必要なのはキムタクだった・・・・・・・・・。
しかし誰かしら突っ込む人はいたのでしょう。現在は外人役だからといって「つけ鼻」なんか皆つけません。
私は想像します。もし、「つけ鼻」の習慣が残りつづけたら・・・・。
文学座とか新国立とか、例えば「桜の園」とか観に行って、出演者が全員つけ鼻とかしてたら・・・・・・。
私は絶対、桜の園を誰が買おうがどうでもよくなるだろうと。だっておかしいもの。ラフネーフスカヤ夫人やアーニャが「つけ鼻」って・・・・・・!
そう。私が観客だったら、物語と、そこで生きている人をみたいと思います。「つけ鼻」つけてそれらしくしている、それらしくしている気でいる人でなく。
役を演じる、ということを、仮面をかぶる、という比喩にたくすことがままあります。
だからでしょうか。演じることが、仮面という自分以外の顔で装う、今風に言えば盛る、という方向に捉えられることがあるのは。
でも、その仮面はつねに、某長寿漫画の某月影先生の言うところのガラスの仮面。
仮面を装着したとて、仮面をつけた主体としての「その人」の素顔が隠れるものではない。
「三人姉妹」では、たとえばロシア人の軍人や令嬢を演じるとして、
「私はロシア人のお嬢様です!軍人です!」
と板の上に、観客の前に立つのは、現代の日本人で、お嬢様でも軍人でもない役者その人。鼻をつけようがどうしようが、それはもう動かしようのない事実として、まずそこにある。
「三人姉妹」という、100年前にロシアで書かれた戯曲の世界のなかに、オーリガがいてマーシャがいてイリーナがいて、
現代の日本にそれを演じる、杵鞭麻衣さんが、朱永靑さんが、飛鳥井みやさんが、竹中由紀子さんがいます。
その間にかかる橋はなんなのだろうか、と考えます。時代も時間も国境も生活も年齢も超えてかかる橋。「つけ鼻」なんかじゃないはずです。
私は役者の経験がないし、稽古場で少し代役やっただけで「めっちゃ疲れた。役者ってすげー。」とか言ってる人間なので、全然こたえとかわからないのですが、先日、ちょっとそれのヒントになりそうなお話を聞きました。
「三人姉妹」演出の石丸さんは、長らく蜷川さんのカンパニーで役者・演出助手をされていた方です。
石丸さんがヒロインとしてある舞台に立つことになり、自分自身とはあまりにかけ離れた人間を演じることが出来ず壁にぶつかったときに、蜷川さんから言われたという言葉のお話です。(私というフィルターをとおしているので、言葉つかいとか違うかもしれませんが、だいたい意味としてはこういうことだろうな、と私がとらえたことです)
「お前に兄弟はいるか?同じ家、同じ環境で育っても、性格が全然違うだろう?だから、こういう環境だから、私はこうしか出来ない、というのは違うんだよ。育つっていうのは、いろんな可能性を捨てることだ。一つ屋根の下で暮らしていても、選ぶものがちがえば別の人間になる。お前は今こうある、以外の自分の可能性を捨ててきたけれど、役者ってのにはな、その捨ててきた可能性、うしなった自分自身を生きる権利があるんだ。」
・・・・・・世界の蜷川が、このBLOGを一生読まないであろうことをいいことに暴挙。
きゃー!!ニーナーッ!!かっこいいー!
うしなった自分自身を,生きることができる、とか、生きていい、とかじゃなくて「生きる権利がある」ときた。シビレます。
それで思ったのです。オーリガやマーシャやイリーナも、なりすまさなきゃいけない誰か、じゃなくて、俳優にとってのうしなわれた自分自身、なのではないかと。
私は俳優の経験がないので、これは全くの想像なのですが。私が書くということとも、それはコミットしていると思うのです。文字を使うと、ふだん何かとうまくいかないこの世界に、別の触り方ができる気がして私は書きます。
結局、もともとないパーツを足して他人を装うのではなく、あらかじめ失われた「私の」世界や人生と手をつなぐことが演じることだったから、「つけ鼻」はすたれたのだと私は想像します。
私は、私たちは、「三人姉妹」の世界なかで、どこまで生きる権利をふるうことができるか。
明日から稽古再開です。
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