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2007年6月

2007年6月23日 (土)

自分らしさ、などという。

■忙しくしていると、自分の中の柔らかさやわずかながらの繊細さは、意図的に我が身に押し込められて、実にビジネスライクなわたしがてきぱきと存在することになる。かなり無理をして現実のニーズに合わせているのに、この合わせ方がなかなか上手くいっているので、周囲はわたしを見たままのビジネスライクな人間として捉えてしまったりする。これは、わたし本人にとって、なかなかストレスの貯まることだ。
 長らく知り合っている友人たちは、もちろん、わたしが仕事場で見せている姿が、かなり作られたものだと知ってくれているのだが、こうたくさんの他者と知り合う仕事をしていると、多くの人は、わたしという人間を、少し誤解したまま去っていく。

 この気持ちの悪い微妙な誤解をなくすには、どこでも自分らしくあれる生き方を獲得しなきゃならない。それが出来ている人が、どれほどいるだろうか? 誰だって、職場だったり家庭だったり、居場所にあわせて立場に合わせて、その場の自分を演じるのが普通だ。悪いことでもなんでもない、社会人としてはごく当然のこと。
 でも、わたしは、そこから抜け出したい。どうしても、いつも、変わりなく自分らしく生きられるように、今からでも方向転換していきたい。

■ただ忙しいだけの、我慢我慢の暮らしが続いているが、それも、少しずつ様相を変えようとしている。自分のやりたいことがわずかながら出来る環境が増えてきているということだ。自分が責任を負える場所が増えてきているということだ。
 この20年、背中を見てきた師匠が偉大過ぎたため、自分らしく生きることを自分で自分から剥奪してきたわたしの人生が、わずかに変わろうとしている。ただ、その代わり、もう大きな傘の下で守られていたわたしでもなくなる。まだ遅くない。わたしは、一個の、一己の、わたしを取り戻したい。
 自分らしさ、などという、手垢のついたことばに、もう一度手を伸ばしてみよう。手垢がついてるってことは、やはり誰もがそこに手を伸ばすからなんだもの。

2007年6月14日 (木)

Mac・Windowsの共存に、感動。

■周囲がパソコンを使い始めても、頑としてワープロを使っていたわたしが、初めてiMacを買ったのは8年前。当時の恋人はMacを仕事でフル活用している人で、一緒に秋葉原に行ってあれこれと教えてもらいながら購入した。わたしはその時、Macを買うことより、恋人とデートできることでウキウキしていたような気がする。
とにもかくにも手に入れてみると、パソコンにはまった。何より、文章を書くのが楽だった。目から鱗の便利さだった。メールというコミュニケーションツールにも驚いた。それまでわたしは、常に鞄に便せん封筒と切手のセットを入れていて、しょっちゅう手紙を書いている人だったから……。

■Windowsに乗り換えたのは、PowerBookG4がおシャカになった後。Macの恋人と別れた後でもあった。何より、Windowsでしか動かない「一太郎」に惚れ込んでしまったのだ。日本語を書くには、Wordよりずっと親切で優しかった。一太郎を使える限り、ずっとWindowsでいいと思っていたのに、音楽の仕事が増え、音楽のソフトを使えば使うほど、Windowsの重さがつらくなってきた。
そして……。
パソコン歴の半分をMacと、半分をWindowsと過ごしてきたわたしは、昨日、新しいMacを購入した。Mac Book Proの15インチ。計画通り、恐るおそるBoot campでXPをMacにインストールしてみた。驚いた……って言うか、ちょっと感動……Mac上でWindowsがさくさくと動いている。Windowsにはメモリの割り当てを少なくしたから、一太郎とプリンタドライバをいれるともういっぱいいっぱい。でも、それで十分。あとはMacがすべてやってくれる。
MacとWindowsを切り替えるには、再起動が必要だけれど、重いWindowsの長い長い起動時間に慣れているわたしには、何のストレスもない。ただただ、新しく手に入れたツールの便利さに、完璧さに、感動している。
すごいなあ、いやあ、本当にすごい。技術がくれる感動は、半端な芸術の感動なんて遙かに超えてくることがある。

2007年6月13日 (水)

ひっかき傷。

■人と出会ったり別れたりは、わたしの仕事の一部だ。もう20年以上一緒に、或いは断続的に一緒に、仕事をしている仲間がいる。また、たった一度のご一緒で終わる場合もある。仕事を離れると、たくさんの友達、そして、去っていった恋人たち。さらには今の恋人。……出会ったり別れたりが、まわりの人より激しい人生を歩んできたような気がする。
そして、表現の仕事をしている以上、知り合っていなくても作品で無数の人に話しかけている。こうしてネット上に文章を書いていることでも、わずかながら見知らぬ人が、文章を通じてわたしを知っていたりする。

■谷川俊太郎の「午前二時のサイレント映画」という詩に、こんな一節がある。 
  
  人はたったひとつの自分の一生を生きることしが出来なくて
  あといくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わる
  でもそのひっかきかたに自分の一生がかかっているのだ
  それがドタバタ喜劇にすぎなかったとしても

■そして、レイモンド・カーヴァーは「ひっかき傷」という詩を書いている。

  目がさめたら、目の上に
  血がついていた。おでこの途中から
  ひっかき傷ができている。でも、
  わたしはこのごろ一人で寝ている。
  自分に爪を立てるようなやつがいるだろうか?
  いくら眠っているときでも。
  今朝からずっと、この疑問に悩んでいる。
  窓ガラスに顔を映してみながら。

■人との出会い別れを思うたび、わたしはこの2篇を思い出す。
出会っても、別れても、どんなに頑張っても、どんなに愛しても、自分は自分で、他人にたかだかひっかき傷をつけるくらいしか出来ない。でも、カーヴァーの描くひっかき傷の、ひりひりとした痛みはどうだろう? この詩の男は、由ないひっかき傷のついた己の顔を、ずっと窓ガラスに映しているのだ。ひっかき傷のない自分ではなく、ひっかき傷のある自分を見つめ続けているのだ。

たとえ家族でも、生涯愛し続けたいと思う人でも、他者は他者。わたしはわたしで、一人だ。

その痛み、その諦観。

そして、「ひっかき傷」は、逆にわたしの微かな希望となる。そのひっかき方こそが、我が人生なのだ、喜劇であれ悲劇であれ、冗漫であれ凡庸であれ。

今も、どこかで誰かが、わたしのつけたひっかき傷の痛みで、わたしを思い出しているかもしれない。

そしてわたしは、ひりひりする痛みを抱え続けて、日々を生きている。痛みなんて何もないふりをしながら。

2007年6月10日 (日)

また一区切り。

■終演後、全体の打ち上げがあって、いよいよ明日が千秋楽。また一区切り。

■大阪の仕事が好きなのは、関西弁をしゃべっていられるから。19歳で東京に出てきてから、すでに東京暮らしの方が長くなってしまったけれど、最初に覚えた言葉も思春期を過ごしたのも関西弁のわたしには、このイントネーションが気持ちいい。
とは言え、明日の夜はもう東京の我が家だ。頭の中では、次の仕事の準備だとか、しばらく手をつけられなかった身辺の雑事だとか、こなしていくべき仕事のTO DOリストがどんどん膨大になっている。若い頃は、この忙しさこそが充実感だった気もするけれど、40代も半ばを迎えて、少し余裕が欲しくなっている。解放される時間の贅沢を味わいたい。

2007年6月 9日 (土)

外は嵐。中は静かな夜。

■昨日までの好天とうって変わって、外はひどい嵐。9階のホテルの窓が、頻繁にぴかぴか光る。塗れたアスファルトを走るタイヤの音をかき消すように雷が鳴る。

■この仕事もあと2日で終わる。帰京してすぐにとりかかるのは、昨年11月に立ち上げた市民ミュージカルチームの、子どものための小さな朗読の会。6月下旬には新しい仕事に入ってしまうから、短期間に集中して仕上げるつもり。その準備をして夜を過ごす。楽譜を整理したり、台詞の割り振りをしたり。……わくわくしてわたしの帰りと稽古を心待ちにしているメンバーのことを思うと、ついつい寝る時間を削ってしまう。今年は、ずっとずっと寝不足が続いている。
今夜、仲間のスタッフたちは千秋楽前の飲み会に出かけていった。つきあいたい気持ちはあるのだが、目の前にやるべきことが余りにも山積み。残念。
今夜も、窓の外の嵐を眺めながら、一人、静かな夜を過ごす。

2007年6月 8日 (金)

青い実、桃の実。

■今年は旅の仕事が多い。大阪はこれで三回目。仕事場まで大阪城を抜けていくのだが、わたしは城ホールのほど近くにある小さな桃園を抜けていく道が気にいっている。4月に通ったときには桜の季節で桃はすでに散りかけ。でも、小道の両側から枝を伸ばした低木の作るアーチの下をくぐっていくのは、とても心地のよいことだった。

■そして今。同じ道を通ると、桃たちが小さな青い実をたくさんつけている。大きな青梅くらいの大きさの、すでにうっすらの毛の生えた、たっくさんのコロコロしたものが、光を浴びてきらきらと光っている。

■なんでも、時分の美しさってものがあるんだなあ。熟す前の新しさ、美しさ。熟しかけの張り、艶。熟しきった甘さ、充実感。次の世代へ繋ぐための落実……。

■次にここに仕事にくるのは、9月の予定。秋口には、この低木の園はどんな姿を見せてくれるのだろう?

2007年6月 7日 (木)

人生に友達を招きいれること。

■今読んでいるのはフラナリー・オコナーの書簡集。
 フラナリーは、生まれた土地であるアメリカ南部ジョージア州を離れ、ニューヨークで作家として独り立ちしようとしていた矢先、紅斑性狼瘡という難病に冒され、故郷に戻り闘病生活を始めた。自らの命の限界を知る中で、彼女は生きている間、自分の書くべきことを書き続けた。自分の手によってしか為されない作品を生み出すことに、限りのある時間を費やした。
 そんな彼女を、書簡集の編者はこう紹介する。
「フラナリーは好感のもてる若い女性で、友達が多かった。友達をとても大切にしていた。この書簡集には到底収めきれないたくさんの手紙が残っていることは、彼女が友達の人生に積極的にかかわり、同時に自分の人生に友達を招きいれていたことを物語る。ごく親しい友達にあてた手紙では、人びととのかかわりを自分は必要としていると書いている。彼女が手紙で連絡を取っていた友達の多くは、それぞれがおなじようにフラナリーを必要としていることに気づいていた。」

■近頃わたしは、ひどく人づきあいが悪い。あまりに忙しい日々が続くものだから、そしてまたたくさんの他者と関わるのが仕事なものだから、仕事から解放されると、一人の時間を確保したくて、よほどのことがない限り友達に連絡しなくなってしまった。誘いを断ることも多い。
 久しぶりに、長いつきあいのプロデューサーと仕事抜きに食事を共にして、仕事のことをはじめ、あれこれと二人で夢中になって語った。一人ではなく、二人であるからこそ広がっていく会話を楽しんだ。そして、フラナリーが自分の限られた人生の相当量を費やして、たくさんの他者を自分の人生に招きいれようといたことに思い及んだ。
 自分の人生に、謹んで友達をご招待し、おもてなしする、という感覚。
 自分の人生に、両手を広げて友達をご招待し、時間を共有するという感覚。
 ……忘れていたなあ。

(フラナリー・オコナー全短篇書評 →1 →2

2007年6月 6日 (水)

母に電話をする幸せ。

■我が母。
 動脈瘤の手術を受け、合併症のあれこれで生死の間を彷徨い、植物人間状態となった母が、奇跡的に目覚めて、すでに2年が経つ。その目覚めを、主治医は「奇跡」と言って憚らなかった。目覚める前に、「奇跡でも起きない限り無理だと思います」と告げたとき、主治医は「奇跡」を信じていなかったに違いない。
■母は、自分が起こした奇跡のことを何も知らず目覚めた。手術の時すでに脳梗塞を起こしていたものだから、記憶がさっぱり失われて、まっさらの状態だった。そして、父と出会いなおす。それまでも世界中でいちばん好きだった人と出会いなおし、あまりにも自分に優しい人として再び好きになり、頼り、甘えた。わたしはしばらく、母の妹、わたしの叔母にあたる「礼子ちゃん」の名前で呼ばれ続けた。のどに差し込まれたチューブからしか生きるための栄養を摂取できなかった母が、はじめて「礼子ちゃん」であるわたしの差し出すスプーンからゼリーを口にした時は、生きるために食べるということは、なんて素晴らしいことだろうと感動した。そのとき「まずいなあ、でも礼子ちゃんが言うんやったら食べるわ」という意味のことをたどたどしくも口にした時は、「この人は治る、きっとよくなる」と確信した。元気だった頃の母が、垣間見えた。
■母の記憶は、2年間ですっかり戻った。じわりじわりと戻り、躍進的に戻り、また後退しては戻り、で、今は物忘れの激しくなったおばあさんくらいですんでいる。
■脳梗塞の影響で、目が見えなくなってしまったものの、これもたまにぼんやり見えることもあるらしい。わたしが久しぶりに会いに行ったときに「あんたの顔が見れたらどんなに嬉しいか」とぽろぽろ涙をこぼしながら、全盲人のようにわたしの顔を撫でさすって確かめたりするものだから、わたしもぽろぽろ涙をこぼしたというのに、そのすぐ後一緒に食事をしている時に、「こぼしたで!」と、わたしの食べこぼしを咎めたりする。「なんや、見えてるやんか!」と突っ込むと、泣き真似をして見せて「たまーに見えるんや、たまーにやで!」と言い訳してみせたりする。「この人は大丈夫だ」と、その時、また思ったりした。
 
■昼間、今日は夜一回公演で時間があったので、電話をかけてみた。4月に帰省して以来、久しぶりにのんびり話した。
 目が見えなくても、相変わらずの病院通いでも、母は生きていることだけでうれしいみたい。なにせ、大好きな父とずっと一緒にいられて、大好きな父がずっと面倒をみてくれるのだから。
■母は、自分が起こした奇跡について、周囲から聞かされて自分でも驚いていたものだが、今は二つのことが、自分を生かしてくれたのだと思っている。
 一つは、自分が頑張って周囲の人間のために生きてきたこと。だから、たくさんの他者が、恩返しのように生かしてくれた、ということ。
 もう一つは、父が待っていてくれたこと。父がいなければ、一人で生きられない老女を神様は生かさないだろう、ということ。

■母と話していると、わたしはいつも心が穏やかになる。
 わたしが生きてるということだけで喜んでくれる人がいる、と、ほっとする。そして、相変わらず出世もせず金持ちにもならず、周囲の人間の面倒を見続けるわたしの暮らしを見て、「あんたは大丈夫。ママみたいに、いつかいっぱい恩返しされるから」と信じている。その確信に、わたしの荒れた気持ちが凪いでいく。
 生きてるだけでよくって、凪いだ気持ちでばっかりいたんじゃあ、わたしの屈折した仕事はうまくいかないから、だから、たまに電話をする。たまに電話をすると、幸せになる。

 今日の午後は幸せだった。母と電話で話す幸せ。

2007年6月 5日 (火)

未だ五月の葉っぱとして。

■日々がめまぐるしく過ぎていったからこそ、毎日少しずつでも書いておけばよかったと思うときがある。
仕事が思いがけず早過ぎるほど早く終わって、飲みに行く一群に背を向けて、まだ陽のある街をゆっくり歩く。ゆっくり歩くのは久しぶりかもしれない。初夏を匂わせる風が吹いていたり、ここが旅先であったりで、気がつくと、自分の来し方を思ったりしている。
その時間時間が「現在」である時には、書くほどもないと思えたことが、「過去」になってみると、何か少し匂いたってきて、書いておけばよかったと思える類のことに姿を変えたりする。 ■自分のHPを開いたのは2000年の5月だった。ワープロ愛用者がはじめてMacを使い出してすぐのことだ。iMac→iBook→PowerBookと三台をおしゃかにしてからWindwsに乗り換え、すでに自分のHPを更新する術を失い、新たに作り変える気もなく放置していた。1年ぶりくらいにのぞいてみると、ちゃんとかつての自分の文章にたどり着けて、当たり前のことに少し驚く。 わたしはこんなことを書いていた。 「また五月がやってくる。
 四月を迎えて、また花の季節がやってくると思ったように、新緑の季節がやってくる。五月の葉っぱはまだ成長の途上。人の手の大きさで言えば小学校五年生くらい。葉と葉の間からまだまだ空が垣間見える。その緑はまだ淡く薄く頼りなく葉脈だってはかなげで、陽の光は思うさま彼らをすり抜けてくる。
 五月は木漏れ日のいちばん美しい季節だ。  自分が自らの人生でまだ何も成し遂げていないと落ち込むよりは、歳がいくつであれ、5月の葉っぱのような人でありたい。途上であるからこその、美しさ、軽やかさ、風通しのよさ。
 ざわめく心をひとり鎮めて、伸びゆくエネルギーに変えていきたい。5月の葉っぱのように。」 かつて自分の書いたことが、今の自分に優しかった。
そして、変わらない自分がいるのに、書かない間に、少しずつ何かを失い続けてきた自分に気づきもした。失ってきた経過を、書き留めてきてもよかったのではないかと思った。 38歳の自分が、45歳の自分に、そう勧めてきたのだ。 また書いてみようかと思う。 アイザック・ディネーセンの言葉に立ち返る。
「希望もなく 絶望もなく わたしは毎日少しずつ書きます」
38歳のわたしより、45歳のわたしの方が、この言葉を痛ましく味わえる。虚しい時間の経過が、ことばの意味をより際立たせるのだ。 shakespeare_2_1.jpg

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