自分らしさ、などという。
■忙しくしていると、自分の中の柔らかさやわずかながらの繊細さは、意図的に我が身に押し込められて、実にビジネスライクなわたしがてきぱきと存在することになる。かなり無理をして現実のニーズに合わせているのに、この合わせ方がなかなか上手くいっているので、周囲はわたしを見たままのビジネスライクな人間として捉えてしまったりする。これは、わたし本人にとって、なかなかストレスの貯まることだ。
長らく知り合っている友人たちは、もちろん、わたしが仕事場で見せている姿が、かなり作られたものだと知ってくれているのだが、こうたくさんの他者と知り合う仕事をしていると、多くの人は、わたしという人間を、少し誤解したまま去っていく。
この気持ちの悪い微妙な誤解をなくすには、どこでも自分らしくあれる生き方を獲得しなきゃならない。それが出来ている人が、どれほどいるだろうか? 誰だって、職場だったり家庭だったり、居場所にあわせて立場に合わせて、その場の自分を演じるのが普通だ。悪いことでもなんでもない、社会人としてはごく当然のこと。
でも、わたしは、そこから抜け出したい。どうしても、いつも、変わりなく自分らしく生きられるように、今からでも方向転換していきたい。
■ただ忙しいだけの、我慢我慢の暮らしが続いているが、それも、少しずつ様相を変えようとしている。自分のやりたいことがわずかながら出来る環境が増えてきているということだ。自分が責任を負える場所が増えてきているということだ。
この20年、背中を見てきた師匠が偉大過ぎたため、自分らしく生きることを自分で自分から剥奪してきたわたしの人生が、わずかに変わろうとしている。ただ、その代わり、もう大きな傘の下で守られていたわたしでもなくなる。まだ遅くない。わたしは、一個の、一己の、わたしを取り戻したい。
自分らしさ、などという、手垢のついたことばに、もう一度手を伸ばしてみよう。手垢がついてるってことは、やはり誰もがそこに手を伸ばすからなんだもの。