青山光二さん御逝去。「吾妹子哀し」。
作家の青山光二さんが亡くなった。
(以下、BOOK - アサヒ・コムより引用。)
「修羅の人」など仁侠(にんきょう)小説の第一人者で、90歳で川端康成文学賞を受けた作家の青山光二(あおやま・こうじ)さんが、29日午前7時30分、肺炎のため東京都世田谷区の老人ホームで死去した。95歳だった。通夜は11月2日午後6時、葬儀は3日午前10時から渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場で。喪主は長男真言(まこと)さん。
13年、神戸市生まれ。東大文学部在籍中、織田作之助らと同人誌「海風」を創刊。小説新潮賞を受けた「修羅の人」(65年)など、賭場を舞台にの生々しい生き方を描いた小説で、人気作家の地位を確立した。
代表作に平林たい子賞受賞の「闘いの構図」や、「青春の賭け 小説織田作之助」「われらが風狂の師」。03年、実体験をもとに、アルツハイマーの妻と老齢の夫との姿を描いた短編「吾妹子(わぎもこ)哀(かな)し」が史上最高齢で川端賞を受け話題になった。
「吾妹子哀し」の読後感を、鮮烈に思い出す。
書いてすぐに、わたしはこんな読後感をまとめていた。
5年前のことだ。
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「吾妹子哀し」 青山光二 (新潮社刊)
満90歳になる青山光二氏が、ステッキ片手に川端賞授賞式に臨む姿を見たのは、テレビだったか、雑誌だったか。受賞作は、アルツハイマーの妻を介護する生活を描いた究極の恋愛小説だという。
任侠小説中心の作家がものする私小説とも言える純愛小説。現役で書き続ける作家の年齢への興味も加わり、あらゆることが刺激的な匂いを放っていて、わたしは出版を待った。
著者本人をモデルとする作家杉圭介は、アルツハイマーと診断された妻杏子と二人で暮らしている。彼女の過去の記憶はざっくりと刈り取られ、新しい記憶はほとんど残らない。記憶は日常の基本的な作法にももちろん及ぶから、トイレの仕方を忘れては失禁し、下着も洋服も杉が着せてやらねばならない。赤ん坊に戻った妻のすべての面倒を見てやって暮らす。少しでも目を離せば、時と場所を問わず徘徊を繰り返すので、常に一緒にいることが生活の基本だ。
このお手上げ状態を、杉は自分の妻への愛情を試すように甘んじて受け、暮らす。
「エーテルのように無色透明な愛情を、いちずに杏子に向かってつないで行こう。それが唯一のおれの生き方なのだ」
「もし今、杏子に銃口を向けて射とうとする者がいたとする。お前は彼女を守って銃口の前に立てるか……立てる、と自信をもって、問いかける自身に答えたのをおぼえている。愛の自覚であった」
結婚、育児、戦争による疎開、出征と、困難に立ち向かうたび、こうして杉は愛を確認してきた。「銃口の前に立てるとも。さあ、射ってみろ」
そして今、銃にこめられた弾丸はアルツハイマー型痴呆症だと、杉は思って暮らす。
二篇の小説は、二人の日常の描写と、それに伴う二人の記憶の描写で進んでいく。二人の記憶といっても、杏子の記憶ははぎ取られているから、杉が二人分を思い出していく。新しいことは何も始まらない。介護の現在に、過去の記憶が紛れ込むだけ。
それでも、杏子は時折、ひょんなことでひょんなことを思い出す。筋の通らない、脳という記憶装置のいたずらなのか、それとも、特別な意味を持って彼女の裡に刻まれていたのか、そのたびに杉は、自分の記憶の回路を辿りなおし、再構成する。そしてまた、愛情を確認し、介護生活の現在を肯定する。ただただ記憶だけが、現在を支えてくれるのだ。
これらの記憶の連鎖は、過去と現在を行き来して、二篇とも、ふとした日常のふとしたところで、ぷつりと途絶える。杉はもうすぐ、介護施設である「老健」に彼女を入所させるつもりであり、そうして手が離れてしまえばもう会いにいくこともほぼなくなるだろうと思っていさえするのだが、その辺りの矛盾に関しては何も語られない。作品が切り取った日常に去来した愛情の記憶が綴られるのみだ。
「半分はつくりごとですけど、私小説と読んでもらって結構」と青山氏は語っているが、わたしの読後感は、これは100パーセント創作と言ってもいい恋愛小説。
介護にまつわる苛立ちも問題定義も何もない。ただ、老いて病気を抱えてしまった夫婦を支える、若き日の美しく鮮烈な記憶と、愛の確認だけがそこにある。それは部分的なノンフィクションではなく、全きフィクションだ。
慣れぬ手つきで妻の髪を刈りつつ、「吾妹子の、髪梳る、春の宵……」と口ずさみ、涙がこみあげる杉。鏡の中に、不器用に散髪された妻と夫の顔が、一幅の絵となる。杉は思う。「愛は記憶の中にあるだけかというと、そうではない。今も愛は生きている。それなら人間らしく、愛に責任を持たなければ……」
こんなに美しすぎるシーンが、こんなに歯の浮くような台詞が、するすると心に溶けていくのは、きっとわたしが老いに抱える不安、自らの愛情の行方に抱える不安を、柔らかく鎮めてくれるからかもしれない。愛したこと、愛していること、それがすべてだと肯定してくれる力が、この小説には溢れている。 (2003年07月15日)
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5年間より確実に、わたしは「老い」に近づいている。
まだ50歳にもなっていないのにと、年上の方には一笑にふされそうだが、
「老い」の物語は、もうわたしの中でも始まっている。
人を愛するには、力がいる。心の力、体の力。生きる力。
それが、老いて失われていくということ、わたしにも起こるのだろうか?
人を愛するということが、こんなに大変な喜びであり苦しみだと、子供の頃は知らなかった。
大人になるというのは、安定することだと思っていた。
それなのに、いざ自分が長じてみると、何のことやら。
他者を愛することは、一生をかけて完遂すべき、一大事だ。
じたばた、どたばた、もがき、あがき、涙も底を突いてきた。
その代わり、一人だとこんなに笑わない。
こんなにあたたかくならない。
自分と他者の間を埋める問題を解決するのは命がけ。
でも、どうしようもないことは、黙って丸呑みする哀しみも。
力業なんだ、心も体も。
老いてる場合じゃない、でも老いる。
さあ、どんな風に老いるんだ?
こうやって、ずっと行くんだな。
どんどん、老いながら。
人生、すべてが初体験。
やり直しなし。
楽しもう。
楽しめるか?
青山光二さんのご冥福を祈り、
著書を再読しよう。