« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »

2008年10月

2008年10月29日 (水)

青山光二さん御逝去。「吾妹子哀し」。

作家の青山光二さんが亡くなった。
(以下、BOOK - アサヒ・コムより引用。)

「修羅の人」など仁侠(にんきょう)小説の第一人者で、90歳で川端康成文学賞を受けた作家の青山光二(あおやま・こうじ)さんが、29日午前7時30分、肺炎のため東京都世田谷区の老人ホームで死去した。95歳だった。通夜は11月2日午後6時、葬儀は3日午前10時から渋谷区西原2の42の1の代々幡斎場で。喪主は長男真言(まこと)さん。
13年、神戸市生まれ。東大文学部在籍中、織田作之助らと同人誌「海風」を創刊。小説新潮賞を受けた「修羅の人」(65年)など、賭場を舞台にの生々しい生き方を描いた小説で、人気作家の地位を確立した。
代表作に平林たい子賞受賞の「闘いの構図」や、「青春の賭け 小説織田作之助」「われらが風狂の師」。03年、実体験をもとに、アルツハイマーの妻と老齢の夫との姿を描いた短編「吾妹子(わぎもこ)哀(かな)し」が史上最高齢で川端賞を受け話題になった。

「吾妹子哀し」の読後感を、鮮烈に思い出す。
書いてすぐに、わたしはこんな読後感をまとめていた。
5年前のことだ。


====================================

「吾妹子哀し」 青山光二 (新潮社刊)


 満90歳になる青山光二氏が、ステッキ片手に川端賞授賞式に臨む姿を見たのは、テレビだったか、雑誌だったか。受賞作は、アルツハイマーの妻を介護する生活を描いた究極の恋愛小説だという。
 任侠小説中心の作家がものする私小説とも言える純愛小説。現役で書き続ける作家の年齢への興味も加わり、あらゆることが刺激的な匂いを放っていて、わたしは出版を待った。

 著者本人をモデルとする作家杉圭介は、アルツハイマーと診断された妻杏子と二人で暮らしている。彼女の過去の記憶はざっくりと刈り取られ、新しい記憶はほとんど残らない。記憶は日常の基本的な作法にももちろん及ぶから、トイレの仕方を忘れては失禁し、下着も洋服も杉が着せてやらねばならない。赤ん坊に戻った妻のすべての面倒を見てやって暮らす。少しでも目を離せば、時と場所を問わず徘徊を繰り返すので、常に一緒にいることが生活の基本だ。
このお手上げ状態を、杉は自分の妻への愛情を試すように甘んじて受け、暮らす。

「エーテルのように無色透明な愛情を、いちずに杏子に向かってつないで行こう。それが唯一のおれの生き方なのだ」
「もし今、杏子に銃口を向けて射とうとする者がいたとする。お前は彼女を守って銃口の前に立てるか……立てる、と自信をもって、問いかける自身に答えたのをおぼえている。愛の自覚であった」

 結婚、育児、戦争による疎開、出征と、困難に立ち向かうたび、こうして杉は愛を確認してきた。「銃口の前に立てるとも。さあ、射ってみろ」
そして今、銃にこめられた弾丸はアルツハイマー型痴呆症だと、杉は思って暮らす。

 二篇の小説は、二人の日常の描写と、それに伴う二人の記憶の描写で進んでいく。二人の記憶といっても、杏子の記憶ははぎ取られているから、杉が二人分を思い出していく。新しいことは何も始まらない。介護の現在に、過去の記憶が紛れ込むだけ。
 それでも、杏子は時折、ひょんなことでひょんなことを思い出す。筋の通らない、脳という記憶装置のいたずらなのか、それとも、特別な意味を持って彼女の裡に刻まれていたのか、そのたびに杉は、自分の記憶の回路を辿りなおし、再構成する。そしてまた、愛情を確認し、介護生活の現在を肯定する。ただただ記憶だけが、現在を支えてくれるのだ。

 これらの記憶の連鎖は、過去と現在を行き来して、二篇とも、ふとした日常のふとしたところで、ぷつりと途絶える。杉はもうすぐ、介護施設である「老健」に彼女を入所させるつもりであり、そうして手が離れてしまえばもう会いにいくこともほぼなくなるだろうと思っていさえするのだが、その辺りの矛盾に関しては何も語られない。作品が切り取った日常に去来した愛情の記憶が綴られるのみだ。

「半分はつくりごとですけど、私小説と読んでもらって結構」と青山氏は語っているが、わたしの読後感は、これは100パーセント創作と言ってもいい恋愛小説。
介護にまつわる苛立ちも問題定義も何もない。ただ、老いて病気を抱えてしまった夫婦を支える、若き日の美しく鮮烈な記憶と、愛の確認だけがそこにある。それは部分的なノンフィクションではなく、全きフィクションだ。

 慣れぬ手つきで妻の髪を刈りつつ、「吾妹子の、髪梳る、春の宵……」と口ずさみ、涙がこみあげる杉。鏡の中に、不器用に散髪された妻と夫の顔が、一幅の絵となる。杉は思う。「愛は記憶の中にあるだけかというと、そうではない。今も愛は生きている。それなら人間らしく、愛に責任を持たなければ……」
 こんなに美しすぎるシーンが、こんなに歯の浮くような台詞が、するすると心に溶けていくのは、きっとわたしが老いに抱える不安、自らの愛情の行方に抱える不安を、柔らかく鎮めてくれるからかもしれない。愛したこと、愛していること、それがすべてだと肯定してくれる力が、この小説には溢れている。                             (2003年07月15日)

====================================


5年間より確実に、わたしは「老い」に近づいている。
まだ50歳にもなっていないのにと、年上の方には一笑にふされそうだが、
「老い」の物語は、もうわたしの中でも始まっている。

人を愛するには、力がいる。心の力、体の力。生きる力。
それが、老いて失われていくということ、わたしにも起こるのだろうか?

人を愛するということが、こんなに大変な喜びであり苦しみだと、子供の頃は知らなかった。
大人になるというのは、安定することだと思っていた。
それなのに、いざ自分が長じてみると、何のことやら。
他者を愛することは、一生をかけて完遂すべき、一大事だ。
じたばた、どたばた、もがき、あがき、涙も底を突いてきた。
その代わり、一人だとこんなに笑わない。
こんなにあたたかくならない。
自分と他者の間を埋める問題を解決するのは命がけ。
でも、どうしようもないことは、黙って丸呑みする哀しみも。
力業なんだ、心も体も。
老いてる場合じゃない、でも老いる。
さあ、どんな風に老いるんだ?


こうやって、ずっと行くんだな。
どんどん、老いながら。
人生、すべてが初体験。
やり直しなし。
楽しもう。
楽しめるか?


青山光二さんのご冥福を祈り、
著書を再読しよう。

                         

2008年10月28日 (火)

ちょっとした不愉快。

映画を観ようと渋谷に出向く。
入り口の様子が、何かおかしい。
チケットを買おうとすると、貸し切りだと言う!
劇場のサイトを見てきたのに、告知はなし。
電話で確認してほしいと言う。
映画を観る前に、劇場にわざわざ確認する人がいるだろうか?

夜ご飯は、安価なさんまで……
といつものスーパーの売り場に出向く。
発砲スチロールに氷と水を張った中にさんまたち。
いつもの売り場。
親子連れ。
娘がトングで、売り物のさんまをぎゅうぎゅうとつぶしている。
母親は、「駄目よ−」と言いながら止めもせず別の売り場へ。
一人になった娘は、まだぎゅうぎゅう。
つぶれるさんま。
「何してるの」と小声でたしなめた私をみて、
脱兎のごとく逃げ出す娘。
母親、どうしていけないって言えないの?

電車。
金持ちのにおいぷんぷんの祖母と孫。
孫が靴を履いたまま、座席で飛び回る。
祖母、気にしない。
母親らしき人物と、思った商品がなかったと話す。
孫、遊び疲れて靴を履いたまま座席で寝転がる。
祖母、靴を脱がしもせず、微笑んで見ており。
え? どうして? 
上等そうな靴だったけど、もちろん裏は平等に汚れる。


……なんて、ちょっとした不愉快の外世界。

ちょっとしたミステリーを読みきったものの、何の後味もなく。
次は、リチャード・パワーズの新作。

昨夜、チェーホフ短編を、わずかに再読。
やはり、わたしはここがいい。

2008年10月27日 (月)

夜。

読んだり書いたり考えたり、といったことを始めると、わたしはどうしても夜型になってしまう。
人は、朝日とともに起きるのが自然、と言われればなるほどと納得するし、朝と昼の美しさもよく知っているのだけれど、自分と深くつきあい始めるには、夜の魔法の方が役にたつ。

市民ミュージカルのための音楽仕事、
絶えざる読書、
家人のための朝食夕食づくりとハウスキーピング、
芝居を観にいって、
映画を観にいって、
そして、書き始めた。

いくらでも時間がほしい。
そして、休暇中だというのに、わたしがあまりに寝ないものだから、
家人は、「きっと早死にするよ」と断言し、
早く死んでほしくないからもっと寝てよと促され。
それでも、家人が眠りについてからの時間を、わたしは捨てきれない。

何かを産むには、準備期間の無力感に負けないことが大事。
求心力が弱まらないよう、自分を信じてみる。
この「自分を信じる」ことが下手なことが、今までの自分の負けを呼んでいたような気がし、
今さらながら、自分の信じ方を習っている。

2008年10月26日 (日)

精神双子の女優と一緒に。

わたしより25歳年下ではあるけれど、なにやらお互いに精神の双子のような気分にさせる女優と食事する。
たくさんの女優の姉になったり母になったりしてきたけれど、その中でも、仕事が終わってからも離れられないひとり。

自分が自らの青春で果たせなかったことを、身代わりのように果たしてくれる若者への愛っていうのは、映画でも文学でも、幾ばくか出逢ってきた主題ではなかったか……。
果たして、わたしは今、その年嵩の方にいる。

飲んだ。
眠い。

2008年10月25日 (土)

新しい才能。

先日、芝居を観た直後に大人買いしてしまった戯曲たち。
……まだ出版されていない、上演台本のコピーが売られていたのだ。

一本読むごとに、くらくらする。
くらくらするほどに面白い。

たぶん、若い俳優だけでは演じきれないドラマを、
ガンガンがつがつ書き続けている。

細かいことを突っ込もうと思えばいくらでもあるのに、
そんなことどうでもいいと思わせる、力と愛がある。
自負の強さと、少年の羞恥がある。
蟻の目と鳥の目を、ちゃんと持っている。
たくさんの人の声を聞き分け書き分けている。

悔しいくらいに、走っている、
ちょうどわたしの年令の半分の、作家、演出家。
演劇をやる人。
時代が塗り替えられていく予感。
旧いわたしは、のんびりと、演劇を愛し続けようか。

2008年10月24日 (金)

こうありたい自分。

一日仕事。
事務所で、新作を立ち上げるための、基礎の基礎の打ち合わせ。
この道30年、やってきましたから、
ひっそりとでもやり続けてきたので、
HOW TOというものがわかっている。
経験値がある。
経験していないことに出会う時はうれしいから、結果を出そうと頑張る。
だから、打ち合わせをどんどん進めることはできるのだけれど、
こういうスキルというのは、時に寂しく、
そんなもんに長けてくると、比例して、人間が小さくなっていくんじゃないかと、
そんな不安にとりつかれる。
すると、鏡の中のわたしは、なにやらしたり顔に見えて、気にいらない。

今の自分が嫌いではないが、
この歳になっても、
「こうありたい自分」が、定まらなくて困る。
「こう」ある時は「そう」でも「ああ」でもいいんじゃないかと、
惑っている。
ずっとそうかなあ。
50代を前にしてこれじゃあ、
こりゃあ、ずっとそうかもしれない。

2008年10月22日 (水)

不調。不調の中でも、あれこれ。

風邪なのか。
医者に行っても「たぶん風邪だと思いますが」という、わたしの同じレベルの判断で、対症薬だけもらって飲んでいる。
自分のペースで仕事をしているところに、思いがけない外注仕事が入ったからか……。
とにかく、もう何年も風邪などひいたことがなかった気がするのに。
明日も、朝早い。間に合うか?
そして、この仕事で風邪をひくと、自分の体が辛いことより、人にうつすことが辛い。
とにかく治さないことには出かけられない。
出かけざるをえないが、心が痛む。

病院の長い長い待ち時間で、村田喜代子さんの「雲南の妻」を、友人がシナリオ化しようとしたものを読む。
女の心に、何度も何度も風が吹く。
熱のある時に読んでよかった。
火照ってふわふわしている自分と、
湿気の高い土地で、異国の地で、心と体を熱くする女の時間が、
おかしなことにリンクした。
疑似体験のようなもの。
そして、熱さの後に吹く風の寂しさも、
同じくわたしを撫でていった。

ポール・ポッツという人を初めて知る。
テレビで何度か紹介されているし、CMにも起用されているので、多くの人が知っているようだが、わたしは知らなかったのだ。
ふとしたことで、デビューのきっかけになった映像をYOU TUBEで見て驚いた。

携帯の販売営業をしていた人が、あんな声を、といって驚く前に、
働きながら、まったく歌と関係ない生活を送りながら、
自分の天分を大事にし続けてきたことに感動する。
そして、歓迎されない客みたいなステージで、集中し、堂々と歌を楽しんだ情景にも。

他者に相手にされなくても、自分の中でゆっくりゆっくり育て続けていたものがあり。
その自分にとって大事なものが、はじめて他者の大きな感動をもって世界に迎えられる瞬間。
リルケの「若い詩人の手紙」の一節を思い出した。

2008年10月19日 (日)

It's my nature

仕事を休んで家にこもって、読んだり書いたりの生活が続いているが、世界から隔絶していると思いきや、誕生日がくるとたくさんのメールが届く。
返事を書くのにとても時間がかかるタイプなので放っておいたら、家人に「メールの返事はすぐに書くものだ」と諭され、一日遅れで送信。……やっぱり時間がかかった。
今の自分を説明するのがとても難しいのだ。
でも、考えてみると、みんな「おめでとう!」と書いてきてくれたのだがら、「ありがとう!」と答えておけばいいのかもしれない。
手紙をもらうと全身全霊返事を書こうとする資質なので、メールはとても疲れる。
簡単に返せない。

訳詞が一曲できあがる。
オリジナルの楽譜を一音一音打ち込んでカラオケも作成。
この作業が、いちばんの予習になる。漫然と楽譜を見ている時には気づかないあれこれに気づける。
この、市民ミュージカルを率いるという仕事では、わたしの「全身全霊」的資質が、うまく作用しているようだ。
わたしが全身でいくと、相手は「え? そんなに」とびっくりした後、迷いを払われたようにのびのびと稽古に向かってきてくれる。
この辺りを理解されないと、わたしは単に真面目で熱情的なだけの人間になってしまう。

そういう資質が恥ずかしくって、違うタイプを装おうとしてみたりしたものの、結局、本質からは逃れられない。

"Crying Game"という映画にこんなおとぎ話が出てくる。

サソリ君は川を渡りたい。
でもサソリ君は泳げない。
川の前で、自分をおぶって渡してくれる人を待っている。
カエル君がやってくる。
サソリ君は頼む。
「カエル君、僕を渡してよ」
カエル君は答える。
「だって、君をおぶったら僕を刺してしまうだろう?」
サソリ君は答える。
「だって、君を刺したら僕も溺れてしまうだろう?」
カエル君は、納得して、サソリ君をおぶって泳ぎだす。
岸はまだなのに、カエル君に痛みが走った。
カエル君は、沈みはじめながらサソリ君に言う。
「どうして刺したんだい? 自分も溺れてしまうのに」
サソリ君は答える。
「だって、それが僕の性(さが)だから」

原語でいうと、"It's my nature"

誰が決めたことなのか、
誰がくれたものなのか、
それとも自分で決めたのか、
この”NATURE"というものに、ずいぶん支配されている。

2008年10月18日 (土)

遊ぶ人。

ふだん、わたしはあんまり遊ばない。
大人になって、というか歳をとって、
「遊ぶってどういうことだっけ」なんて思ったりすることもある。
仕事が忙しくて土日も働き続けていたし、
大きな休みがあって旅行だのしても、それは「遊び」じゃない気がするし。
お酒が好きだからしょっちゅう飲みにいってたが、それも違う感じ。
映画を見たりの外出は、必ずひとり。
散歩が遊び?
読書が遊び?

今は仕事を休んでいるけれど、
毎日、次の仕事の準備のことを考えている。
そのために一日の行動を決める。

「何して遊ぼう?」とワクワクしていた頃が懐かしい。
遊ばない、淋しい人だな、わたしは。

と思っていたら、
今日は家人の仕事が休みで、
注文していたWii Musicが届いたものだから、
一緒に、一日、ゲームに興じた。
ずーっと家の中で、それをやましいと思う暇もなく、
興じた。
音楽を仕事のうちと数えるわたしも、ちょっと夢中になるゲームだった。
いろんな楽器の音源が、リモコンを振ることで鳴ってくれる。
画面を見ていると、自分が音を出している気分になってしまって楽しい。
テンポと音階を操作することは出来ないけれど、
リズムのアレンジで、曲を動かせる。
……それにしても、今の子どもたちは、こんなもので遊べるんだなあ。
リズム感、コード感が育つだろうなあ。
作った人、すごいすごい。
作った人に敬意を表して、
一日、しっかり遊んだ。
久しぶりに、遊ぶ人になった。

貯金ばっかりしている人って、ちょっと淋しい感じがあるけれど、
わたしは、どうも、最近そんな感じだなあ。
貯金するみたいに、本を読んだり音楽を聴いたりしている。
かつては、何もかも、心をときめかす遊びだったのにね。

夕飯が終わると、家人も明日に備えて、ちょっと仕事モード。
わたしは、なんだか最近ライフワークみたいになりつつある市民ミュージカルで、次にやる曲の、訳詞作業に入る。
過去に訳されているものが、どうも気にいらないから、自分で訳す。
うきうきわくわく稽古に集まってくる、老若男女の顔を思い浮かべながら。
彼らに、めっちゃくちゃ楽しい遊びを用意してあげるのが、わたしの役目だ。

うーん、楽しくなきゃね。
せっかく生きてるんだもの。

2008年10月17日 (金)

読む人。

今日は、読む人になった。

あまりに天気が良いので、
空がうっとりするほど青いので、
ベランダで読む。
暑くなってきて、
近所の喫茶店までいって読む。

食事の支度の時間になったら、
鍋を火にかけながら読む。


この間、久しぶりにシナリオライターの古い友人に会ったら、
激しく不愉快な酒の飲み方をして、
それは、大好きだった人が亡くなった悲しみからそうなっていたのだけれど、
一緒にいるわたしは、どうふるまってみても、力にはなれないのでひどく辛く、
また、自分の痛み悲しみならなんとかなっても、人のことはどうしようもないので、
あんまりおおらかに「悲しい」をやられてしまうと、よけいどうしようもなく。
男の子の特権のように、暴れて喧嘩とかし始めると(もう40代だけれど)、
最初こそ止めるけれど、自暴自棄の胡散臭さに、もう、死のうが何しようが、勝手にやれと眺めていたくなる。

……ってなデートをしたばかりの友人の書いたシナリオを読んだ。
誕生日のプレゼントにと、
映画化も上演もされていないシナリオと、
10代に書いた詩集をくれたのだ。

彼といるより、彼の言葉に接している方が、彼と一緒にいるような気分になる。
生きている彼は大変だ。
でも、そんな大変な生を生きているから、言葉が零れてくる。
書かずにはいられない。
書いたものを読んで、ようやく、現実の彼への愛情に、また色がさす。
困った男は、言葉を紡ぎ出すとき、わたしの生を慰撫し、揺るがす人になる。


そして、戯曲を読んだ。

あまり小劇場を観ないわたしが、
たまたま足を二度も運んでしまった劇団。
若い作家が、今しか書けない言葉を繰り出している。
それなのに、ちゃんと原初的なにおいがする。
「今」に堕していないのだ。
普遍的な人間がいる。
この間、芝居を観にいったら、
まだ出版されていない彼の戯曲のコピーを販売していた。
全部買った。
全部も用意されていなかったので、
千秋楽のあと、作家であり演出家である彼から送られてきた。

そんな、戯曲を読んだ。
もちろん、全部一度に無理だ。
8本ほどある。
読み始めた。


読むは易し。
語るも易し。

夢想を繰り返して、
言葉を音にし絵にする時を企み、待つ。

2008年10月16日 (木)

自由。

仕事をやめた。

自由だ。
しばらく何の予定もない。

自分で仕事を始めるためにやめたので、
やらなければいけないことはいっぱいある。
仕事に忙殺されてできなかったことも山積みだ。

何も決まっていない朝を迎えて、
その日を自分で決める。

何も為していないような気になる一日を過ごすと、
ちょっと落ち込む。夜が長くなる。
何を為したかで一日をはかっている間は、
いい仕事なんて出来ないような気もしてくる。

« 2008年9月 | トップページ | 2008年11月 »