『アンナへの手紙』
今年はじめ、アムネスティ・フィルムフェスティバルで上映されたものの、昼間一回限り。
仕事で行けなかった。
どうしても見たいと思ったのだけれど。
今日、アンナの関連記事を探していて、ノーヴァヤ・ガゼータ紙のウェブサイトで『アンナへの手紙』を、驚いたことに、フルサイズで見られることがわかった。
英語部分にロシア語字幕が出るだけ。
それでもいい。
ようやく見ることができる。
今夜はこの映画とともに。
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今年はじめ、アムネスティ・フィルムフェスティバルで上映されたものの、昼間一回限り。
仕事で行けなかった。
どうしても見たいと思ったのだけれど。
今日、アンナの関連記事を探していて、ノーヴァヤ・ガゼータ紙のウェブサイトで『アンナへの手紙』を、驚いたことに、フルサイズで見られることがわかった。
英語部分にロシア語字幕が出るだけ。
それでもいい。
ようやく見ることができる。
今夜はこの映画とともに。
このところかなり話題になっていた、村上春樹さんのエルサレム賞受賞と、その受賞挨拶。
16日のことだから、もう人の口にあまりのぼらなくなった時期だろう。
が、そこここで、様々に、様々に、人の口は、たくさんの言葉で、批判したり賞賛したり、共感したり異論を呈したりしてきたに違いない。想像するだけで、使い捨てられた言葉に潰されそうな気がしてくる。
わたしも例に漏れず、ネット上で全文和訳を読んだ。共同通信で訳されたもの。
すぐにリンク切れになりそうなので、自分のためにコピペしたPDF。
このスピーチを読んで、何かを語る気にはなれなかった。
誰かと議論をする気にもならなかった。
それより、何か、こう、深い川が足下を流れて、根の生えていない足を水に持っていかれ、強引に時間をさかのぼってしまうような、そんな感覚で、村上春樹さんという作家を読んできた自分の来し方を考えたりした。
***
村上さんは、わたし個人にはとても大事な作家だ。
群像賞をとって「風の歌を聴け」が出版されたのが1979年。
1980年に早稲田の第一文学部に入学したわたしは、演劇専攻の先輩にあたる人のデビュー作が、大学生協の本屋に横積みになっているのに出会う。
それ以来、新作が出るたびにずっと発売まもなく入手して読んできた。
ずいぶん本を読む人生だと思うが、そんな読み方をする作家はほかにはいない。
一人の作家を追ううち、世界にも作家にも、小さな自分にも、色んな変化が起こる。
処女作を夜中の台所で書いた作家は、やがて執筆に専念するために経営していたジャズ喫茶をたたむ。
短篇と長編の合間に、英米文学の翻訳を作家は始める。わたしは村上さんのおかげで、以来敬愛するレイモンド・カーヴァーと出会った。
「ノルウェイの森」を読んだ時、今までとはまったく違うスタンスを感じた。それは実に人口に膾炙しやすく、誤読されやすく、読み捨てられやすかった。売れに売れた。
発売当日に買ったわたしは、読了後すぐ、前後巻を二組買って、友人にプレゼントした。半年後にはベストセラーになっていた。……古本屋に赤と深緑の背表紙をずいぶん見たものだ。
作家は、米国の大学に招聘され渡米。執筆の場はそこから長らく日本を離れることになった。アメリカから、ヨーロッパへ。エッセイを読んでいると、若い頃から引っ越しが多かったことがうかがえたが、日本の文壇に根を生やさず、あえてデラシネ生活のように見えながら、自分という存在の足場には根をしっかりと伸ばしている、浮遊する樹木のような印象を、わたしは持っていた。
彼は、その頃から走り始めていた。ストイックであることと、自由であることを、短篇と長編の行き来のようにバランスよく生きる人だと、わたしは思っていた。
阪神大震災と地下鉄サリン事件を経て、彼の作風が変わる。
作風というより、世界との関わり方が変わる。
作家自身が、それをデタッチメントからコミットメントへの変化と語っている。
「アンダーグラウンド」は、かくして初めてのノンフィクションになった。
その頃、故河合隼雄先生との対談が出版された。
人は何歳になろうが、世界から変化を要求され、痛んだり苦しんだりしながら変化をしなければいけないことがあるのだと、わたしは実感として知る。その変化をナイーブに楽しむ作家と、人の痛みを人生賭けて知ろうとした心理学者と。
各国で翻訳が出版され、売れ、評価される。わたしは作家のフェアがヨーロッパで開かれているのを、不思議な感覚で眺めた。
賞も受ける。そしてエルサレム賞。
そこで彼がとった「受ける」「出向く」という行動も、公になったスピーチも、善と悪だの正と誤だの美だの醜だのといった二元論では、きっと語れない。
複雑極まりない世界があって、
その複雑さの根源たるたくさんの人間とたくさんの人間の複雑があって、
複雑なる一人の作家が選べること。
そこに、衆人が納得する答えなどないに決まっている。
それなのに彼が「出向いた」こと、あえて言葉で「語った」こと。
そのことを深く覚えておきたい。
作家が、あえて、言葉を使って書くのではなく語ったということ。
言葉に対する当たり前な不信感など超えて。
自分の声を使って、母国語ではない言語という不確かな伝達手段で、言葉を音にして、世界に差し出したこと。
***
一人の作家を追うことが、自分の人生にわずかながら、いやわずかならず、反映している。
同時代に生きていて、幸せだと思う作家の一人だ。
これからもずっと、わたしは村上さんの新作を、発売日を待って買うことだろう。
そして、いまだに、自分の根をどこにどう生やせばいいのかと、考え続けるだろう。
2006年10月、暗殺されたアンナ・ポリトコフスカヤ記者。
彼女の殺害に関与したとして4人が起訴されて、何も解明されずに捜査が終わってしまったのが、昨年6月。
そして、2月20日、被告4人に無罪判決が下り、釈放された。何も解明されないまま。
報道があまりに断片的で、
昨年6月に実行犯とみなされていた人物の存在のことや、
今回釈放されたチェチェン人被告のことや、
同時に釈放された元FSB職員が、
どれだけ事件に関わっていたか、知る由もない。
チェチェン総合情報は、チェチェンとロシアに関して絶えず知らせてくれるとてもありがたいサイトだ。
ここで紹介されているラジオ・リバティの記事も、その断片のひとつ。
たくさんの断片が、まとめてあるページもある。
知ることができる限りを知ろうとしてみるのだが、やはり断片は断片だ。
FSBが関与しているとしたら、解明するわけもないのだろうが……。
アンナが勤めていたノーヴァヤ・ガゼータ紙(Новая газета)のウェブサイトをのぞいたら、やはり特集が組んであった。
昨年12月からの公判の流れを追って伝えてくれている。大学で習ったロシア語はもう記憶の外。翻訳ツールの助けを借りて読んでみるが、裁判が開かれたことに意味があったのかさえ疑いたくなってくる。
わたしが知っても何も意味のないことだとわかっていながら、知ろうとすることをやめられない。
真実が明らかになり、悪しきが罰されることなどないとわかっていながら、そうあって欲しいと願うことをやめられない。
はじめてモスクワを訪れた時に、劇場占拠事件が起き、そこで解決の糸口になろうとしていたアンナを、後々に知った。
あの国で、あの国情で、チェチェンの現実を報道しようとする行動力と勇気に驚いた。
ベスランに向かう飛行機で毒を盛られるに至っては、遠くで行動する女性の命が、心配でならなかった。
著書を読んでは、「言論の自由」などといった言葉が通用しない国での激しい言論言質に驚き、アンナの身の安全は大丈夫なのかと不安になった。
かの国より安全な国にいて、リスペクトする女性の行動を、報道で追っているだけのわたしが、心配でならなかったというのに、彼女は、一体どれだけの危機感と不安を乗り越えて、報道し続けたのか?
そんな勇気、本当にありうるのか?
……考えるたびに、本当の強さが喪われたことが、痛ましくなる。
彼女とて、完璧な人間であったわけではないだろう。
何かを取るということは、何かを捨てることであるから、
一人の人間が、どんな他者にとっても完璧であることはないとわたしは考える。
でも、正しきを伝えようとする美しさは、悪しきを見逃すまいとする強さは、決してこの世の中から抹殺などされてはならない。決して。
彼女の強靱な魂が、肉体は滅びても、かの国の未来に生きることを願う。
わたしは、自分のこのちっぽけな人生を生きる途上で、何度も彼女のことを思わずにいられない。
以下、自分のための埋め込み。
レンテレビのドキュメンタリー。
彼が演じると、その人は、少し過剰になる。
その過剰さが、時に脚本の穴さえ埋めて、一人の人間像がリアルに立ち上がり、観客席の闇にいる人を、別の人生へと牽引していく。
そして、その過剰さの裏に、静かな絶望と、静かな愛が、ほの見える。
そして、映画館を後にすると、立ち上がった役の人物像の裏に、知的で冷静な俳優が見えてくる。
知的で冷静な俳優は、はにかみながら、自分の姿を消している。
でも、いつも青白く燃えていて、激しく人間を愛している。
さっきまで信じさせてくれた別の人生は、彼という人間を土台に立ち上がったフィクションであったことに気づく。
……それが、とっても当たり前なことだということに、気づく。
俳優が役を演じるというのがどういうことか、
彼はものすごく原初的に思い出させてくれる。
ショーン・ペンという俳優。
もう20年、敬愛してやまない人。
昨年末、あまりにも大変な現場に入り、
正月返上で働いていたというのに、
その舞台が、中止になるという事態に陥った。
演劇を生業としてきた身にとって、
あってはいけないことだった。
怒っても、嘆いても、訴えても、
稽古場はなくなり、
迎えるべき初日はなくなり、
闘うべき日々は喪われた。
この形のない暴力に負けるのが悔しくて、
そのまま泣き寝入りしている自分が情けなくって、
同じ思いを味わった俳優とスタッフに声をかけ、
「ACCIDENTS」という芝居を創り上げた。
動員数は、日生劇場一回公演分の三分の一に過ぎないが、
わたしたちは、開けるべき初日を開け、
迎えるべき千秋楽を迎えた。
作品は、観客席に温かく受け入れられ、
そこに一筋の光が射した。
ひとつを成し遂げ、
また次の目標へ。
これから自分で舞台を創っていく第一歩として、
新しい俳優と出会うための私塾を作る。
「POLYPHONIC」という名前をつけた。
未知の人々と、響き合う時に向けて。
一から、いや零から自分で立ち上げる喜びと苦労。
五十代を前にして、ずいぶんな冒険を、と思うが、
たまにはこんなタイプがいていい。
一生安定なんてしなくていいから、
この一生を楽しみたい。
自分の責任で。
自分らしく。
この二行が、
わたしの三十代に欠けていたものだ。