■ずっとその存在を気にしていた、ダンサーであり振り付け家であり教育者でもある女性に、誘われてデートをする。
わたしは市民ミュージカルの稽古の帰りで体も心も火照っている。彼女も、公演を目指した稽古の後でだった。
気がつけば、舞台のこと、ダンスのことなど、夢中になって喋りたおしていた。
どんなボールを投げても受けてくれるし、
また返ってきたボールを受けるのが楽しい。
来年、彼女のユニットの舞台を、きっと演出することになるだろう。
是非やらせてもらいたい。
■かつて大変な仕事をともにしたプロデューサーと食事。
ずっと違う場所で働いていたのだけれど、「タンゴ・冬の終わりに」という、わたしのスタートラインになった舞台に、お互い参加していた。そして、20年を経て、また一緒に仕事をした人だ。
若い時に同じものに心を動かした経験があると、どれだけ離れていても、違う場所で歳を重ねていても、なんだかすぐに心が寄り添える気がする。
演劇の話、満載。
結局、だいたいが、演劇の話。
そうだ、アントニオ・ガデスとクリスティーナ・オヨスとパコ・デ・ルシアの話なんかでも、盛り上がる。若い人がいたら、無理な話題ばっかり。
それにしても、商業演劇から身をひいてしまい、彼女たちと再び仕事をするのはいつの日か?
毎日、中学生の少女のように「頑張んなきゃ」と思っている自分がいて、少しうざい。
■まとめてDVDを見る。仕事ばっかりしていて、ちっとも映画館に足を運んでいなかった……。
「フラガール」……蒼井優ちゃん、稽古場や舞台で見た線の細さが嘘のように、地に足がついて逞しい。そして、比類ない瑞々しさ。
それにしても、脚本は、実に屈折なく(屈託なく)優しい。
緊張が緩和に向かうのだと、転は結に向かうのだと分かっていても、取り込まれてしまうのがドラマだとしたら、予定調和すぎて、取り込まれない。
とへその曲がったことを言いつつも、自分と同じような立場の松雪泰子に、かなり感情移入して見ていたりする。
「東京タワー」……原作は感涙しつつあっという間に完読。封切り時に刊行された松尾氏のシナリオもかなりぐっとくるものだった。でも、映画はあえなくたくさんのエピソードをカットし、面白くないとは言わないけれど、ごくごく普通の作品になっていた。
おかんを演じる女優二人は、親子だけに顔が似ているものだから、リアル。
……なのに、演技の質が全く違うものだから、なんだか俳優が変わった時点で人格が変容しているように見えてしまう。
オダギリジョーは、やっぱり彼にしか出来ない表現があって、幾つかのカットでわたしは骨抜きにされてしまったりするのだけれど、でも、ちょっと彼の「ナイーブ」に食傷しているのも確かだ。
どうして最近の映画監督は、こうも、「ナイーブ」が好きなんだろう?
永瀬正敏が出てきた頃から、男優の魅力のひとつとして幅を効かせはじめた「ナイーブ」(と、わたしは思っていたのだが)、少し安売りされ過ぎている感があるなあ。
「接吻」……監督が演出している現場を見てみたかった。小池栄子がここまでいいのは、演出なのか、彼女のクレバーさなのか。
映画を見ている間は、そんなことを考える暇なく、小池栄子の演じる役に没頭してしまった。
殺人犯を一瞬にして愛する、殺人犯の目に一瞬にして自らと同じ孤独の匂いを感じ取る。その瞬間を信じられたら、もう疑念を差し挟む暇なくラストシーン。そして不可解なラストに戸惑うも、情感で信じ切るも、自由。……キム・ギドクがよくやるラストシーンの突き放し方に似ている。
脚本は、女の気持ちで読み進めていけば大丈夫だけれど、男の気持ちでいくと無理がある。無理があるはずなのに、そこを豊川悦司がうまく埋めている。観客のわたしは、だましてもらえて、うれしかった。
「12人の怒れる男」……今、チェチェンを描くこと、ロシアを描くこと自体が、驚きであり感動であり。密室劇に挟み込まれる戦場映像と12人の人生の向こうに、ニキータ・ミハルコフの憂える姿が見えてくる。
かつて、「機械仕掛けのピアノのための未完成の戯曲」で大役を演じたピアノが(自動ピアノ)、ここでは戦火に燃える。白鍵も黒鍵も赤く染まり、弦は音を立てて切れていく。
舞台に選ばれた小学校の体育館は、どこか北オセチアの事件を思わせ、荒涼としている。
そこで、12人と1人の人生を、そして、12 人のロシアとロシア人を憂える思いを、倦むことなく見届けた。
それにしても、ミハルコフが俳優として相変わらず何ともかっこよく、うまいことに、ため息をつく。最後においしいところを持って行きすぎで、なんともずるい。
「アンダーグラウンド」を再見。もう何年も、自分のベスト・ワンだと思っている映画。