三つの夜。
DVDで「Into The Wild」を見る。
ショーン・ペン監督 エミール・ハーシュ主演。
家族に世間に世界に自分に、疑問を持ち、文明を逃れた青年。
きっと感情移入する人とか、現実離れした他人事と思う人とか、青臭さへの冷笑とか、そんな感じの感想にわかれるのだろう。
感想なんてどうでもいいや。
ああ。
主人公の気持ちなど理解できない。
わたしは理解するには歳を取りすぎた。
社会人などと呼ばれる者になるための努力を重ねてしまった。
簡単に感情移入などできない。
だって、わたしは40代まで生きてしまったから。
そして、恐ろしい。
一人の青年を軽くのみ込んでしまう自然が恐ろしく、
目を開けていられない。
俯瞰するカメラは、神の目線なんかじゃない。
神の目など、どこにも届いてはいない。
翌日、ケラさんの芝居を観る。
神なんてこれっくらいのもんでしょ?
と、笑い飛ばす作家。
と、悲観する作家。
そして、うだうだと面倒な人間たち。
小市民の懊悩を演じると、山崎さんは何てうまいんだろう。
演劇的遊び心、すさまじく。
ラストシーンにはあらゆる想像力を刺激され。
忘れ得ぬ風景になる。
神様なんて、いない、いない。
さっきあんなに祈ったのに。
祈る……なんて信心を起こしてしまったのに、
もうそこには、屋根もない。
ずぶ濡れ。
……すごい本を書くな、ケラさん。
ようやくMILKを見る。
わたしにとってショーン・ペンは、
知性と野生を兼ね備えた最も美しい男。
そして、知性と野生を兼ね備えた、理想的な俳優。
のんきにそんなことを思う、小さな日本の演劇人のはしくれは、
彼にまた打ちのめされる。
なんとかシステムとかなんとか効果とか、もうどうでもいい。
このところずっとそう思う。
他者になりきるとか、自分を生かすとか、憑依したり冷静だったり……なんか、どうでもよくって……ただそこに、自分と演ずべき他者がいるということ。
出会うこと、葛藤すること、生きること。
自分と他者ってことは、二人で、二人はすでに社会で、演じるってことは社会を内包している。
……あんなすごい表現を見て、なんでわたしはこんなつまらないことを書いているのか。
彼の映画をほぼすべて見ているけれど、
彼はそのたび、別の人間の人生を生きている。
喜怒哀楽の表現さえ違う。顔も違う。
ヘアメイクで変化は出せても、表情筋まではいじれないのに。
それは、もう、ひたすらに、彼が他者の魂の、いちばん大事なところを抽出しているからだろう。
観察と、分析と、それを支える知性。
そして、人間と世界に対する、深い絶望と、深い愛情。
演じるショーンにうちのめされ、
思い切りドラマにのめりこみ、
ハーヴィー・ミルクの人生に少し自分を重ねた。
マイノリティーとしての40年間、
人生を変えたいと願う40歳、
奔走し続ける愛の40代。
まだ何にでもなれると信じていた少年時代が蘇る40代。
夢を心身の全力で支える40代。
ホームムービーや記録映像を多様するガス・ヴァン・サントの映画手法が、
かつてを生きた人の息づかいを、手で触れられる距離に運んでくる。
それが愛おしく。それが痛ましく。
映画館の闇の中で、
またひとつ、
自分に絶望し、
世界に絶望する。
こんな自分で、こんな世界を生きるには、
悔いをより少なくするには、
生きた、って実感するには、
とりあえず、愛し続けるしかないなと、
考える。
とりあえず、愛してみる。
……それにしても、
わたしは絶望という言葉を、
いつからこんなに使うようになったのか?