Amazonに注文していた村上春樹さんの新作が、ようやく届いた。
エルサレム賞の影響か、出版社の戦術に乗せられてか、こんなに売れるのもどうかと思う。
「ノルウェイの森」が売れすぎた時も、何かイヤな感じがあった。
村上さんにとって、小説を書くという行為(或いは欲望)は、果たして、人口に膾炙することに結びつくだろうか?
そして小説を読むということは、人にとって、いったいどういう行為(或いは欲望)なの?
ヘアスプレーを厚生年金にて。
アパルトヘイト問題をミュージカルで、が作品創りのスタートラインだとしたら、よくぞここまでキュートで楽しい作品になったものよと、感心する。
60年代のボルチモアが舞台。主人公のよーく太った女の子が、朝目覚めて「Good Morning Baltimore」を歌い出すところから始まる。
晴れやかな朝の歌には、コートを突然広げて局所を女性に見せて興奮する類の露出狂だの、朝まで酒に溺れて「俺の人生失敗だぜ」って感じでパブの薄汚れたガラス越しに濁った目で街を眺めるおじさんとかが、主人公が愛する街の、お決まりの朝の風景として登場する。
え?って思う。この、自分の街を愛するパワーって、何なの?
景気が悪いとか、治安が悪いとか、出来そうな人間は他の街に流出してしまうとか、そんなことおかまいなしに、「わたしの街!」と歌う底抜けの明るさに、冒頭からわたしはやられてしまった。
それにしても、いい曲ばっかりだな。
余計な欲がない。シンプルなリズムとメロディー。ここには、小さな日本人であるわたしまでが愛してやまない、アメリカの音楽がある。
歌い踊る登場人物たちの向こうに、ELVISの姿が、ボルチモアという小さな街の夢の向こうに見えてくる。
そして、ELVISの無残に壊れてしまった夢が人生の痛ましさを喚起する。
人生という奴は複雑なので、作品を作る時に、どこまで多面的に深く光をあてるか、その加減が問題。
ヘアスプレーは、シンプルに、難しいことは抜きにして、ざっくりと、まばゆい光度の光をあてる。
それがいい。その先の想像力は、観客の中にある。
映画版も見たが、何と言っても、クリストファー・ウォーケンの父ちゃんがいい。「ディアハンター」のクリストファー・ウォーケンが、びっくりおもちゃの店主を。ミシェル・ファイファーに言い寄られて目をくりくりさせているなんて。そして、ジョン・トラボルタの母ちゃんと歌い踊る。トラボルタと言えば、サタデーナイトフィーバー、わたしは高校の修学旅行で、「Night Fever Night Fever」と歌って踊っていた世代だ。タランティーノのキャスティングで復活してきた時も嬉しかったっけ。
なんだか、懐かしい家族を見るようなほんわりした気持ちで、「Timeless to Me」を聞く。
***
人と出会うのは、大いなる喜びである反面、人生には「どうしようもないこと」があるのだと認めざるをえない悲しみになることもある。
4月から新しい生活に入って、人と出会うことの喜びと悲しみの両極端を経験し続けている。
そのどちらも、自分自身を映す鏡だと思って受け止めなければ。
その悲しい方がやってきて、かなりかなり落ち込んで帰宅して、玄関をがちゃりと開けて、電気をつけて、二階の自分の部屋にあがろうとして、なんというか、とんでもなく素敵なものと対面した。
わたしは、劇場占拠事件に遭遇してしまったロシア旅行以来、愛情や怒りや疑惑や、複雑な思いをロシアという国に抱えているのだが、そういう複雑さと全く無縁に、ものすごく単純に「マトリョーシカ」という人形が好きだ。
人形(ひとがた)が人形を内包する、あのフォルム。旧態依然の絵入れ。キッチュだ。
ロシアで買ってきたものは人にあげてしまったので、ずっと「欲しい欲しい」と思っていたものが、
突如、階段に一体ずつ並んでいた。
普通、マトリョーシカは、横に並べる。そして、並べるだけでパースがつくものだから、同一平面に置くのが普通。
それが、階段に一体ずつ、小さい方から大きい方へ、上へ上へと、導くように。
不細工な顔したちびから、すました大きい子まで。
みんなわたしを待っていた。
視線を感じる。
目の前から、斜め上から。
パースペクティブのちょっとした魔法。
家人の父が船乗りで、ロシア行でたくさん入手したらしい。実家から送ったもらったものを、並べて待っていてくれたわけだ。
思わぬプレゼントに心が躍った。
それ以来、マトたちは家の階段の常設展示になった。
慌ただしい朝、ダン・ダン・ダンと駆け下り駆け上がっていた階段を、視線を感じながらのんびり歩くようになった。
幸せは、難しそうで、時に簡単。
でも、幸せって何だろう?
わからないので、また明日も頑張る。