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2010年4月

2010年4月28日 (水)

先を生きる者。

私塾の太一が、「先生、絶対読んで!」って言い続けてた「ワンピース」を読み始めた。
この忙しい時に?って思うけど、年貢として太一が運んできてくれるので、扉を開けてみる。いったん手をつけると、ちょっとはまってしまった感じで。空き時間を見つけては読む。文学に手をつけるより、気持ちが楽、息抜きにはいい。そして、息抜きの度を超えて読んでしまう。やばい。

そう言えば、「先生」って呼ばれることに、わたしはずいぶん慣れたな。
「石丸さん」と呼んでくださいとみんなにお願いして、はじめは断固拒否だったのだけれど、何人かは「先生」のまま。でも、彼らの呼び方に何のストレスもないので、拒否しなくってもいいのではないかと思い出した。
大体、今わたしはまぎれもなく先生だ。
私塾にいると、演出家であると同時に、先生。
「先生」って言葉にくっついている色んなイメージを嫌っていたものの、最近は、「先を生きる者」としてとらえている。年上の方も「先生」と呼んでくださるが、こと演劇に関しては、わたしは彼らより「先を生きる者」だ、まぎれもなく。
だから、わたしは、しっかりと手渡ししていく。先に生きているからこそわかることを。長い時間をかけて見つけてきたものを、丁寧に渡していく。

昨日から私塾の稽古にきている佳恵を導く。選ばれた彼女が、今、何を喪いそうになっているか。今、何を獲得しようともがいているか。それを、うちの女優たちが熱いまなざしで見ている。稽古が終わって、週末のオーディションに来られない女優の先行審査。
たくさんの女優たちに囲まれて、わたしは粛粛と思う。
わたしにできることが、ある、と。
先を生きる者として。
驕らず、溺れず、賢明に。そして心熱く。
あ、もちろん、男たちも。
でも、ちょっと違うんだな。
若き女性たちに向かう時と、
若き男性たちに向かう時と、
「粛粛」の種類が違う。
そういうことに、人生は賭けられる。
そういうことに、真剣に立ち向かえることは、幸せだ。
先を生きてはいるけれど、進化の途上であるわたしの、幸せ。

2010年4月26日 (月)

勇気という名の涙雨。

オーディションの第一選考を終える。
作家と一緒に選考する時間の制約から、全員と会えないことが心苦しい。
配役表はあがっているので、今回出会いたいキャラクターで絞り込む。
今回お会いできない方に、ただ「残念ながら……」という型どおりのご連絡ではなく、きちんと事情を説明しようとするも、丁寧過ぎるのではないだろうかとか逆に嫌な思いをさせないだろうかと、不安が去来。
そういう不安に埋没しないためにも、型どおり、というものが存在すると思うのだが、今回は勇気をもって自分の言葉で書いてみる。
制作は、「確かに丁寧すぎますけど……」と懸念を表しつつも、「でも、それが石丸さんの気持ちなのだから」と受け取ってくれた。
朝までかかって、オーディションの課題をあげる。
戯曲の方向性がわかっているので、ちょっと風変わりな課題のとりあわせになる。
3時間弱の睡眠で、さいたまへ。
ここでも夏に向けてのオーディションワークショップ。
舞台を作り始めると、何より大変なのが、稽古場に入るまでだ。
しかし、ここですでに作品の半分が決まっている。
嫌なこと、辛いこと、面倒なこと、不愉快なことが、稽古場よりずっとずっと多いけれど、ここが踏ん張りどころ。

WS終わりで、そのまま、ニナガワさんの稽古を見る。
井上先生の昨年の書き下ろし「ムサシ」の再演。
わたしはその時すでにカンパニーを離れていたので、一観客として見ている。
前回は、開幕ぎりぎりに書き上がったので、稽古で埋めきれなかった部分が、きっちりと埋まり始めていて、初見のような驚き。珠玉のシーンの連続。
そして、芝居のいわゆる「オチ」のシーンで、物書きだったと称する杏ちゃんの、物書きとしての台詞のあたりから、もう、心臓をわしづかみされてぐらんぐらんと振り回されているような気持ちになる。
「生きていたら、もっと書けたのに」と、物書きが死にきれずに、往生できずに、「殺しあいはやめてくれ」と頼む姿。言葉でしかものを伝えられない、演劇でしかものを伝えれない人の、ことば、ことば、ことば。叫び、叫び、叫び。
稽古後話していたら、白石さんもそりゃあやっぱり感じている。「あのシーンやるたんびに、感じるのよ、先生いらっしゃってるなって、ここら辺に」。
本当に、いらっしゃってた。
「ことばで、演劇で、やってくださいよ」と、勇気という名の涙雨を体中に浴びているような感じ。そして、生きているありがたさ。「生きてるんだから、やってくださいよ」と声をかけられ、責任を感じる。

剣をペンに持ち替えて、戦場に赴かず劇場で、人はどこまでできるのか。
時に、言葉の多様性に負けそうになって、言葉で何ができるものかと嘆くこともあるけれど、稽古場で、聞こえてくる言葉たちに、力づけられる。
人生を賭けた言葉たちに。
井上先生の生前の動物虐待やDVばっかりが取り沙汰されたりすることがあるけれど……。
わたしは詳しいことは何にも知らないけれど、それでも、詳しいことは何にも知らないくせにあーだこーだ言う輩に言ってやりたい。
人間なんて、多かれ少なかれ醜いだろうよ、汚いだろうよ。程度の差こそあれ、どくされなんだ。美ばっかり知ってて醜を知らないで、善ばっかり知ってて悪を知らないで、戯曲なんて書けるかよ!
体はって生きて死んだ人の体はってる言葉を、とりあえず味わってみろ、と。

復讐の連鎖を断ち切りましょうよ、殺しあいはやめましょうよと、切に訴え、面白くも馬鹿馬鹿しくも訴えるこの作品が、今回はニューヨークへ行く。すごいことだ。
自分から離れたものの、わたしのニナガワさんへの敬愛は変わらない。
あの人がいなければ動かない企画、動かない公演、動かない人、動かない心、動かないお金がある。
なんでもかんでも動かして、演劇をやり尽くしてほしい。しゃぶり尽くしてほしい。
わたしは創り上げる側で、24年、そこに参加した。
これからは、客席側で、参加し続ける。
演劇は舞台と客席、両方が生み出す、時限性の奇跡だ。


2010年4月23日 (金)

締切、せまる。

今月末のオーディションの締切が、明日(あ、もう今日だ!)に迫った。
数日前までは、「あんまり来ないものなんだな」とちょっと淋しく思うのと同時に、せっかく応募してくれた人たちと知り合う時間がちゃんと持てるな、などと思っていた。
でも、今や、どんどん届いている。どんどん。
一通ずつちゃんと目を通していくだけで大変な作業。
そして、こういう時に、わたしの馬鹿正直さが顔をもたげる。
一人一人、それぞれの人生時間を使って、何かの夢を持って、思い描いて、ここに向かってきてくれているのだからと、ものすごく真面目に考える。
私塾の生徒たちが卒業していく時に思ったように、わたしは、たくさんの人の人生の書き換え作業をすることになるのだ。それが、ほんのシミに過ぎないような一点でも。
ほんと、真面目であることは時に恥ずかしいような気もするんだけれど、いやいや、やっぱり、誠心誠意、これでしょう。たとえ通り過ぎるだけになってしまっても、短い時間で全力で知り合おうとすること。
そして、演出家としての自分の目を信じること。同時に、人としての自分を過信しないこと。
選ぶ立場は、同時に、選ばれる立場だということを覚えておくこと。

それにしても、冷たい雨の一日だった。
稽古場では、とっても心の熱くなる稽古が展開。
わたしは稽古場で最もいいお客さんのつもりだから、わたしがぞくぞくしたりわくわくしたり出来た日はよい稽古なのだ。でも、最近は、わたしがいいなと思ったら、まわりのみんなもすっごくいい顔をして稽古を見ている。
明日もまた賑やかな一日になりそう。


2010年4月21日 (水)

孤独の履歴。

雨があがって、今夜も窓外は工事の喧噪。それも、人声が凄かった。
工程でもめてしまったのね。
深夜の湯船で「1Q84」に埋没していたところを、激しい怒声で醒まされた。
それも、濡れたアスファルトを竹箒で掃くような音を最後に消えた。
午前4時の商店街にふさわしく、人の気配がなくなった。

村上氏の書いたものを読んでいると、なぜかいつも、わたしは大学に入学したての頃に戻ってしまう。
初めて手にとった村上氏の処女作が、文学部の小さな生協の本屋に平積みになっている風景が蘇る。
その頃の自分。その頃の自分の本の読み方。その頃の自分の五感。その頃の世界の色と気配。木々の葉擦れの音、学食の安いカレーの匂い。
そして、「1Q84」が呼んでくるのは、わたしの夜ごと見た夢の履歴のようなものだ。
孤独の時間の堆積。堆く積もった孤独の履歴。

今夜もわたしは不思議なくらい醒めていて、明日の稽古と、新しい物語のことを考えている。
わたしを必要としている人たちや、わたしが必要としている物語のことを。

眠りにつくまで、アレクサンダー・テクニークの勉強をしよう。
家人は、呼吸のトレーニングをつきつめていく中で完全に声を取り戻した。
人の体、人の声とつきあうことは、勉強と真剣な観察と分析の連続。

2010年4月20日 (火)

散髪が好き。

今夜は、久しぶりに家人の散髪をした。
わたしは、散髪が好きだ。

まだ俳優だった頃、
散髪するシーンのある短い芝居を書いて、
出演したことがある。
その時に、実家が理髪店の演出助手から借りた、
五万円するという本物散髪ばさみをぶんどって我が物とし、
人の髪を刈ってきた。
何度も。何度も。
もちろんプロじゃない。
勉強したわけでもない。
でも、どうやらセンスがあるらしく、評判はいつも上々だった。
本番の前になると、
俳優は、お金と時間がなくなる。
そんな時に、俄散髪屋は、大繁盛する。
その顧客リストの中には、
J事務所だっていた。
「え? 事務所、大丈夫なの? ほんとに平気?」と、
びびりながら、だったが、結果は上々だった。
丸刈りもいっぱいやった。
古くはテクノカットもあった。
常連の頭の形は熟知していた。
演出家の要請で、
ありえないほどの虎刈りも作った。
ざんばら髪の、武士の中剃りも。
小さなはげもいっぱい作った。
そして、好きな男の髪も切った、もちろん。

人の体の一部分に、
親密に触れて、触れて、
セクシャルなのに、その行為にはいつも、
古い時間を刈り取ってしまうような爽快感がある。
かつてその人の一部だったものが、
ハラリハラリと、体を去っていく。
時にはゴミ袋を強引にかぶせて、
足下には古新聞を敷き詰めたりして、
あるときは、風呂場にて、
人の体の一部分に、
真剣に相対する。
前から、後ろから、右から、横から。
小さな丸い舞台をわたしはまわり。
軽い世間話などしながら。
笑いながら。
延々と黙りながら。
ざっくりと、
ちょきちょきと、
さくさくと。
しんなりと。
その時間の二人っきりは、
いつも、さらりとねっとりを行き来するような、
不思議な手触り。

鏡にうつるまじめくさった顔、ふたつ。
途中経過は、いつも不安。
切る方も、切られる方も。
そして、
鏡にうつりこんだ新しい自分に対面する瞬間の顔、
「どう?」と、後ろから遠慮がちにのぞきこむわたし。

何もかもが、好きだ。

わたしは、「もう一度人生があるなら、どんな職業がいいですか?」って聞かれたら、
いつも「指揮者」と答える。
もし三度目があるなら、男に生まれて、髪結いの亭主になりたい。
逆もまた、よし、って、絶対、そう、思う。


2010年4月19日 (月)

時代と生きる。

稽古、観劇、稽古、観劇、稽古に個人レッスンと、なんだか大忙しの日々に、久しぶりの人と会ったり、久しぶりの人から連絡があったり、思いがけない連絡をいただいたり、なんだか心揺れる日々ではある。

今日は午後と夜で個人レッスン二本立て。
午後来てくれた人は二回目の個人レッスンなのだが、ちょっと驚くべきエネルギーの人だ。
まず、ネットでたまたま俳優私塾POLYPHONICの「楽屋」公演を知り、知人が出ているわけでもないのに「面白そうだ」という勘が働いたということで観にきてくれた。これだけなら割とあることだけれど、なんと彼女の住まいは名古屋である。なんと、名古屋から、「面白そうだ」という勘だけで、東京までうちの公演を観にきてくれたのだ。ほかの用事があるわけでもないのに。
これだけならまだ普通かもしれない。
その次に彼女は、「公演がとても面白かったから石丸さんのレッスンを受けたい」と、観たその日にメールをくれた。いてもたってもいられずに、と、すぐに送ってくれたのだ。
そして、仕事の休みだった金曜日に泊まりがけで東京に出てきて稽古を見学してくれて、土曜日に初めての個人レッスンを受けてくれた。そして、今日が二回目。今度は日帰りの旅だ。
4時間のレッスンではあるけれど、一回目でお互い知り合ったことが生きていて、楽しく明るく前向きな稽古だった。たった4時間で、彼女はいろんな発見をしたと思う。教えるわたしも楽しく、早く次の稽古で出会いたくなる。
……こういうひたむきなエネルギーに出会わせてくれたインターネットというものに、わたしは深く深く頭をたれて、お礼を言いたい気持ち。そして、出会いへの勘とわたしを信じてくれた彼女にも、もちろん。

わたしは今やネットもパソコンもなしには生きられない人になってしまったが、そんなに若くはないので、出会いは遅い。
まだ書院のワープロを使っていて、ニフティのアドレスをとり、ワープロにパリから電子メールなるものが届いたことに衝撃を受けたのが37歳。38歳で初めてのマックを購入。それから、だもの、すべてが。
インターネットを知らなかった時代も、今から思えば美しい。
そして、インターネットを有効に活用できる現在も素晴らしい。

これから、どんなに便利なものが生まれて、どんな風に生活が変わっていくのか、わたしは技術の進歩に疎いので時代に着いていくだけだ。わたしが生きられる時間は限られているわけだから、延々と続く時間の中の限定された時間を、存分に楽しみ、活かして生きるということか。
どの時代を生きても、その時代にしか創れない芸術がある。それを、作り続けること。自分が生きうる時代の中で。
そして、あとを生きる人たちに、ほんの少しでも何かよいものを残すこと。自分が生きた時代の証を伝えること。

でもって、やるべき仕事は山積みなのだけれど、なんとそんな折りに「1Q84」が届いてしまった。まずいな、何より優先してしまいそう。

2010年4月15日 (木)

井上先生の言葉。(岸田戯曲賞選評より)

今年度の岸田戯曲賞授賞式の映像で、柴幸男さん受賞作チームのラップを聴きながら、井上ひさし先生の不在を想った。

以下、岸田戯曲賞の何年か分の選評から抜粋して、井上先生のことば、ことば、ことば、引用させていただく。 

 

 長く戯曲を書き続けている一人として、評者は以下の信条を信じている。
 第一に、戯曲はすべて、それぞれ固有の劇的プロットを持つ。
第二に、よい劇的プロットは、容易に言語の壁を乗り越える。よい劇的プロットは、違う言語を持つ人たちの心をも動かす力を持つ。つまりよい劇的プロットには普遍性があり、それは人間の知恵の営みなのだ。
第三に、よい劇的プロットを構成する分子の一つ一つは、その戯曲の時間軸に沿って、それこそのっぴきならない順序で並んでいる。ついでに言えば、その順序を崩した瞬間、それは平凡で下らない劇的プロットに堕落する。

 舞台の上に、ほかの形式ではとても表現できないような特別な時空間を創り出すこと。その特別な時空間に貫禄負けしないような強靭で生き生きした言葉を紡ぎ出すこと。そして、この二つがうねりながら一つになって、ふだんでは、「見ていても見えず、聞いているのに聞こえない」人間の真実を観客の前に提示すること。しかもその観客は一人や二人ではなく何百何千にも及ぶので、よほど強力なプロット進行を仕掛けないと、それらの人たちは一匹の巨大で生きた観劇共同体にはならないだろうということ……劇を書くということは、以上の難問を乗り越えるための苦役にほかなりません。これが自分で作品を書くときも、ほかの作品を読むときも、評者が頭のどこかにおいている物差しです。

 劇作家が第一に心がけなければならぬのは、この、人間最古の表現形式である演劇に対して、愛と志があるかどうかを自問すること、そして同時に何か飛び切りの趣向を発明することである……と、評者は堅く信じている。愛と志は、作家それぞれに固有のものだから、ここでは問わないし、また問うこともできない。けれども趣向は別だ。趣向という言葉はいかにも軽そうに見える。評者にしても、かつて「芝居は趣向」と発言したために、ずいぶん損をした。そんな軽いことを口にする作家の作物など陸でもない、つまらないものにちがいないと、極めつけてくる人がまだまだ多いからだ。

 演劇的な仕掛けと構造──これがなければ、いかにその台詞が優れていても、どれほどその物語がおもしろくとも、それは演劇ではなく、たぶんそれは小説かなにか他のものにちがいない。これが評者が戯曲を読むときの最大の関心事である。

 
 劇作家の大切な仕事の一つに、〈おもしろい場面を背負って登場する人物を用意すること〉というのがあります。おもしろい場面という言い方に抵抗があるならば、感動的な場面でも痛切な場面でもなんでもいい、とにかく劇作家は、その芝居の質を決める取って置きの場面を登場人物のだれかに内蔵させておいて、それを最良の間合いで表に出して客席を圧倒する。

2010年4月13日 (火)

追悼。

井上ひさし先生がお亡くなりになった。
郷里姫路の本屋で「ブンとフン」を立ち読みした高校時代、仕事をご一緒させていただくことがあるなんて、もちろん想像の外だった。
先生と言葉の話、日本語の話が、たとえ演出助手の仕事であっても、できたことを、一生の宝にしたい。
自分たちの母国語日本語を大事にしなさいと、無数の印籠を手渡して逝ってしまわれた。
責任を持って受け取らなければ。
先生の書いた人間の悲喜劇のことを、ずっと考えていた。ずっと。
上演したい、演出したい作品がたくさんあった。
何度も候補にあがっては、まだ自分では現実にできなかった。
逡巡している間に、時は去っていく。
……「天保十二年のシェイクスピア」をコクーンで上演した時に、井上先生が客席で見守る、そのにこにこした顔が忘れられない。あの公演は、そりゃあそりゃあ大変な思いをして初日を開けたのだけれど、あの笑顔で帳消しだった。演劇を心っから大事に愛してきた人の顔。演劇の神様みたいな人を前に、わたしは、「ああ、わたしも演劇が好きだ!」と思ったものだった。
井上先生、お疲れさまでした。
どうぞ安らかにおやすみください。

今日は声の仕事をする家人が声の調子を崩し、急遽、家庭内ボイスレッスン。
病院で撮ってきた声帯の写真は、はっきりと声が出ない原因を映し出していて。
それは、声帯の痛みではなく、声帯の緊張。
半日がかりで、その声帯につきあう。そして、その振動を限定している呼吸につきあう。
最後には、彼自身が、自分で発見し、しっかり体感してくれた、声帯のゆるめ方を。
全くでなかった低音がすばらしく響きを持ち、わたしの貴重な臨床例がまた増えた。

隙間のない忙しさはまだ続く。
時間が空いたと思えば、返信が必要なメールがガンガン届いて、返信しているとあっという間に2、3時間くらい過ぎてしまう。
丁寧に言葉を探す仕事が控えている。音楽劇を作るための大事な過程が。夜の時間をしっかりゆったり使って、後悔のないあがりにしたい。わたしが今、自分の仕事に自信を持てるのは、まず、誠実さだもの。

2010年4月10日 (土)

笑う門には福来たる。

は〜あ。
今日の稽古は、本当に面白かった。
自分が演出してやってもらっていることとは言え、みんなであんなに腹を抱えて涙流して笑い続けの稽古時間も珍しい。
わたしという、一人の演出家がやっていることでも、去年と今年、構成メンバーが違うだけで雰囲気も進行も全然違う。当たり前と言えば当たり前なのだけれど、新鮮。楽しいぜ。
これだけ笑ってる稽古場には、福がきそう。
二期がスタートして、3日間。
来週からは一期残り組も加わって、賑やかだろうな。
7月からは演出補仕事で出向して稽古が減ってしまうので、6月まででどんどんいこう。
変わっていく喜び、進化する驚き、味わってほしい。

ここのところ、眠りは足りていないけれど、体は健康。実に元気。
……なんだけれど、かねてから持っている腰痛が、ちょっとぶり返している。
今日、稽古帰りに芝居を観て帰ったのだけれど、たかだか2時間だったのに、小劇場の椅子は辛かった。座りやすい椅子って本当に大事だな。今日は、鞄からもぞもぞと稽古着を出してきて、丸めて腰の後ろにあてて何とかしのぐ。普通の椅子だったらなあ……と思いつつ。
うちの10月公演、椅子のこと、ちょっと気にしておかなきゃな。

明日は秩父。


2010年4月 9日 (金)

生きていることを最大限に有効活用する責任。

わたしは誘惑に弱い。
今夜もやるべき仕事を途中で投げ出し、どうしても読みたかった本を開いてしまい、そこからはもう止まらなかった。誘惑に負けただけの読書が、途中から、今夜このことを知ってしまわなければという意志に変わり、過去から現在に至る自分を見つめ直す契機になった。

先日入手した、「ビギナーズ」。
レイモンド・カーヴァー作品が、編集者ゴードン・リッシュによる改稿を受ける前の形で、読める。
カーヴァー好きなら、「風呂」と「ささやかだけれど役に立つこと」という、同じ作家が推敲したものとは思いにくい別ヴァージョンがあることを知っていたが、今回の村上春樹氏による紹介で、かつて何が起こっていたかが、明らかになった。
長い長いアルコール中毒の暮らしから、ようやく抜けだし、前妻とのいざこざから解放されてテス・ギャラガーというパートナーと出会った、彼本人が「悪いRay 」から「いいRay」に変わりつつあると思っていた時期に。もちろん、そこまでに、カーヴァーとリッシュの間には、深い人間的信頼と深い溝が同時に存在していて、この訣別に至るのだけれど。

「ビギナーズ」の読後、リッシュが改稿を施した「愛について語るときに我々の語ること」を一気に再読した。ミニマリズムの作品として仕上げようとしたリッシュの意志がはっきり読み取れ、それは村上氏も指摘しているように、ある種の成功をしているように思える。でも、確かなことは、その二つは「全く違う作品」であって、わたしがカーヴァーの作品だと思っていたものは、カーヴァーの書いたものと全く違うものだったということだ。
わたしは、リッシュがカットしてしまった老夫婦の話が読めてうれしかった。
ハーブという主人公が抱える曖昧さ、その話の迂遠さに、胸をなでおろした。
そこにこそ、「大聖堂」という成熟に至る作家の、精神の旅程の一部が見えると、わたしには思えたからだ。そして、ますます、この作家にシンパシーを感じて、これまでの弱き自分との闘いが一気に思い返された。

わたしはレイモンド・カーヴァーの、バイオグラフィが好きだった。
今から思えば、恥ずかしいし失礼な話だが、自分と同じように弱い人を求めていたのだと思う。そして、才能がないわけでないのに人生の失敗者である人を探していたのだ、若きわたしのエゴが。
カーヴァーは、そこにぴったりの人だった。
わたしは、落ち込むと、彼の年表を見た。そして作品を読んだ。何度も何度も。
その作品に登場するごく当たり前な生活者たちの日常に垣間見える一瞬のセンチメンタリズムに共振し、何気ない風景に宿る永遠や絶対を溺愛し、人生の崩壊さえ予感させるような示唆的な一瞬を秘めた日常の恐ろしさに驚き、人と人がふれ合う瞬間と絶対ふれあえない瞬間の共存に、自分のペシミズムを重ねた。

1988年8月、彼が亡くなったことを知ったのは、何によってだったろう?
覚えていない。
わたしはまさにそこから30代を迎えようとしていて、レイがアルコールに溺れて書かない30代を過ごしたように、わたしも自分から動こうとしない弱気な30代を過ごした。わたしは、自分の30代を、後悔はしていないが、失敗だったと思っている。
彼が亡くなってからも、わたしは彼の年表を愛した。弱い自分をなんとか許すエクスキューズをそこに見つけていた。

この改稿を余儀なくされた彼の人生を悼む。
若くて馬鹿なわたしには見えなかった痛みが、今、彼が亡くなった年齢に近づいて、ようやく少しわかるようになった。

50歳を前にしてわたしは今更だけれど自分で動き出している。
この歳で、「無名」である自分につきあうのは、はっきり言って、しんどくって仕方ない。でも、この歳からでも、「知られていない名前の看板」をあげる勇気と、自分と他者と世界への愛情で残りの人生を切り拓く意志をなんとか持ち続けている。
カーヴァーが亡くなった歳にほど近くなって、わたしは「生きている」ことを最大限に有効活用する責任を感じている。

今夜、「ビギナーズ」を読んだことで、わたしは改めてレイモンド・カーヴァーと出会い、改めて弱者であり人生の失敗者である自分と向き合うことになった。
でも、もう一度、自分のために書こう。
わたしには、生きていることを最大限に有効活用する責任、そして義務があるのだ。

そして。読書人としては。
この短編集に、まだ何篇も彼の未読のオリジナルが収められているから、丁寧に少しずつ少しずつ、出会い直す作業を進めていこう。
オリジナルを読み、改稿版を読み、原文にあたる。時間はかかるけれど。少しずつ。
わたしの人生を映し出す鏡を、今こそしっかりと見つめること。

2010年4月 8日 (木)

次から次へと。

稽古初日が開いて、これで少しはほっとできるかなと思ったものの、カレンダーを見たら、でっかい打ち合わせまで後3日。やばい、やばいと思いつつ、今夜も事務が続く。クリエイティブな仕事の時間が制作時間に食い潰されることの恐怖。自分が駄目にならないためには、態勢を整えるだけの経済力を持つことなのだけれど、今は追いつかない。自分でなんでもやるのが、一番のエコ。その代わり、眠りを削る。……家人がしょっちゅう、長生きできないよ、と心配している。

今年もまた、たまたま集まった人でスタート。
本当に、たまたま集まった仲間が、これからどう個人として成長し、グループとして豊かになっていくか。人が変われば、わたしにとっても、また新しい実践学習。
「自分自身の広告」ってエチュードで、10分から15分かけて、ひとりひとりと出会っていった今日。
すでに知り合っていた人たちの再発見もあったし、
初めての人たちの、わずかに垣間見える素顔に親しみを感じたり、
ちょっぴり感動したり。
……いい稽古だった。
どうぞ、どうぞ、よき方向に導けますように。
神様、一生懸命、誠実にやっていきます!
味方してくださいね!

明日は、わたしのこれまでの学習と経験値をフルに使った発声指導開始。
呼吸するってどういうことなのか。
どうして声は作られるのか?
体の中で、どんなことが起こってるのか?
日本語ってどんな音でできてるのか?
こういうこと知るのって、ちょっと人生変わるくらいの衝撃だと思う。
だって、今まで、どれだけすごいメカニズムが機能しているか、
みんな知らずにきているわけだから。
明日もまた楽しみ。


【業務連絡】
翠ぃ〜〜〜元気ですか〜?
ここを読むのを楽しみにしてくれていると
さつきに聞いたので!
新しい環境でも翠スマイル絶やさずに!

2010年4月 7日 (水)

遠足前夜。

事務事務事務事務事務ーーーの日々がようやく終わって、
忌むべきToDoリストも全部チェックマークを入れて、
明日は私塾の稽古初日。
ようやく稽古場に戻れる。

今頃、明日から稽古に入る俳優たちは、ちょっぴり興奮していたりするのかな。
かくいうわたしは、昨日の3時間睡眠を取り戻そうと早めにベッドに入ったのに、興奮してまた起き出してしまった。ベッドのお供に持っていったポール・オースターが心を掻き乱したせいもある。

今日午前中の打ち合わせは、これからの大きな仕事の出発点。
来週の、ビッグな打ち合わせ、ここで間違えたらこの仕事終わりでしょ的な打ち合わせに備えて、勉強しまくるべきなのだけれど、どうにも今夜は遠足の前って感じ。
遠出を控えているのに、足はうずうずしているのに、まだ一歩も踏み出せないんだもの。

明日が楽しみな夜って、悪くない。
幾つになっても。

2010年4月 6日 (火)

Theatre Polyphonic 第一回公演               谷賢一新作書き下ろし出演者募集中。

募集は締切りました。

Theatre Polyphonicは、石丸さち子がプロデュース、演出する新しい演劇企画集団です。
たくさんの想像力、創造力が──歌にたとえるなら──それぞれに新しい歌を歌い、時に古き良き歌を歌い、自由に絡みあい響き合える、そんな稽古場、そんな劇場をを求めて、スタートしました。

第一回は、石丸がどうしても「この人の作品をやりたい」と願ってやまなかった劇作家、谷賢一氏の新作書き下ろしを上演します。テーマは「愛」。

出演者は現在キャスティング中ですが、同時に、この機会に、埋もれた才能や磨かれざる原石がもし眠っているなら、是非出会ってみたくなりました。新しいチームの始まり、新しい戯曲のお披露目には、新しい俳優がふさわしい。
今回は役を限定せずに、魅力的な人がいれば主要キャストも演じていただくつもりで、このオーディションを実施します。

かつて、わたしが俳優だった頃、オーディションなんて大嫌いでした。「5分や10分でわたしのことが分かるものか!」と、いつも演劇界や審査員に苛立っていました。
でもこれは、わたしたちから求めて出会いに行くためのオーディションです。
わたしたちが出会いたいのです。
出会うために、どうぞ、訪ねてきてください。
5分や10分の奇跡を信じて来てください。お待ちしています。


以下、応募要項です。(応募要項ダウンロード)

====================
【企画概要】

「悪魔の絵本」(仮)

作 :谷賢一
演出:石丸さち子

劇場:サンモールスタジオ
期間:2010年10月1日〜11日

【募集要項】

応募資格◆20歳〜40歳位の健康な男女。
     経験の有無、プロ・アマ問いません。
     8月中旬からの稽古、10月の本番に参加できること。

応募方法◆こちらのフォームからお申し込みください。
     携帯はこちらのフォームから。
      ※別便で写真2枚(全身・上半身)をメールに添付してください。
      件名は【応募写真(お名前)】でお願いします。

    ◆郵送かE-mailの場合①履歴書(プロフィール)
              ②自己紹介文(200字〜400字程度)
              ③写真2枚(全身・上半身)
              ④80円切手添付の返信用封筒(郵送の場合)

               以上を郵送かE-mailにてお送りください。

宛先◆〒184-8799 〒 184-8799日本郵便小金井支店留め 
          Theatre Polyphonic 制作 倉重千登世 宛

メールはこちら
(件名:オーディション係)

締め切り◆4月23日必着

選考方法◆書類審査の結果は26日迄にお知らせいたします。
     実技審査は4月30日、5月1日、都内の会場で行ないます。
     実技審査料として千円をいただきます。
     応募者多数の場合、追加審査を行う場合があります。(無料)


※その他
・プロダクションへご所属の方は事前に許可を得てからご応募下さい。
・ノルマはございません。 販売枚数に応じてチケットバックがあります。
・書類等のご返却はいたしかねますので、予めご了承ください。
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【お問い合わせ先】 
Theatre Polyphonic  E-mail t.polyphonic@gmail.com

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■谷賢一プロフィール■
主宰する劇団DULL-COLORED POPではすべての作・演出を担当。
2009年までに、オリジナル脚本10数本、翻案5本、翻訳2本、演出作品計20作ほど。
脚本家としては詩的で鋭利な独特の台詞回しと構成の巧みさで観客から高い評価を得ている。
演出家としても引き出しの広さと深い想像力を武器に幅広い作品を手がけ、次代の演劇界の旗手として常に注目を集める存在。

■石丸さち子プロフィール■
ニナガワスタジオでの俳優活動を経て、蜷川幸雄作品の演出助手演出補として長らく活躍。
2009年より、蜷川カンパニーを離れ活動、大胆かつ繊細な作品が評判を呼んでいる。
2010年からはTheatre Polyphonicで、新作と既成作品、またオリジナルミュージカル作品を企画演
出していく予定。
俳優私塾POLYPHONICを立ち上げ、俳優教育にも情熱を注いでいる。

     


この春の特記事項。

今日は無心に仕事した。
明日から情報を流す予定の、10月公演のオーディション。
その準備を一から、あれこれあれこれ、もう、そりゃあ無心に。
これでひとつ片付いた。
明日は午前中さいたまで打ち合わせ。
これでまたひとつ落ち着く。
そして、あさってはもう私塾の稽古始めだ……。

と、明日8時起きなんだから、もう眠りたいのだけれど、
まだ連絡待ちしている。
連絡待ちする時間をこうしてやり過ごしている。

昔は、目の前にニンジンがぶら下がっていないと走れない時が多かった。
ここまで頑張れば、あの人と食事に行ける、とか、
泡の出る酒を奮発して飲もうとか、
あそこに旅しよう、とか。
でも、最近は、ニンジンがなくっても走れる。
どうも、好きで仕事している。
仕事することが、今を楽しむことに等しい。
ささやかに幸せじゃあないか。

そうだ、わたしがこの春をこんな風に幸せに過ごせる要因があった。
わたしは、花粉症を克服したらしいのだ。
40代から突然やってきたこの激しい疾病。
病院で検査してもらったら、いきなり重度のスギ花粉症であることが判明し。
そんな折りも折り、わたしは秩父で市民ミュージカルを率いることになり。
……いや、もう、秩父の稽古場から見える景色ってのがすごい。
目の前の山で、杉という杉が風に揺れて、白いような黄色いような煙がもうもうと立ちこめているのだ。もう、山火事のように。
そんなところで稽古していたものだから、鼻ものども、荒れに荒れ、自慢の豊かな声も出なくなり、目の周りの皮膚はひりひり。しまいには行くたびに高熱を発して寝込んでいた。
春は、仕事をうけちゃいけないんじゃないかとさえ思っていた。
それが、今年は……。

治ってる。

8年ほどにもなるこの苦しみが……。
思いつく理由はひとつしかない。

スギ花粉を秩父で過剰摂取したから。
あまりに吸いすぎて、体がどうやら変調をきたしたらしい。
ほんとに? ほんとにそんなことあるの?
でも、それしか思いつかない。
とにかく、治ったのだ。
そして、それは、大好きな春を、どんなに素敵にしてくれるか。
この春の特記事項だ。

……と、書くうちにも時間は過ぎる。
起きられるのか、わたし?
もう、連絡を待たず眠ってしまおうか。
とりあえず、目覚ましを先にかけておく。
今日は四つ。四つかけるぞ。


2010年4月 5日 (月)

芋蔓、さらに。

秩父帰り、池袋で「フラニーとゾーイー」をゲットしにジュンク堂へ。
本屋に行った時は必ずなのだが、あれこれと山盛り両腕に抱えて込んでからレジで、取り置きを頼んだ旨伝える。
「タイトルを教えてください」とレジの若い店員の男の子に言われて、「フラニーとゾーイー」と告げる。
すると、彼は、メモ用紙に「フラニーと象医」って、書いた、書いた、確かに書いたの。
フラニー、それは外人の名前ってすぐにわかる。でも、ゾーイーって名前、聞き慣れないよね。
それにしても、象医とは。
なんだか、村上春樹の昔の短篇に出てきそうだ。
……象医。
ふと井の頭動物園のはな子を思い出す。

今年で63歳になったはな子。
戦時中の猛獣処分の痛手を埋めるように、
戦後の人心の復興のために、タイからやってきた。
以降、人を不慮の事故で二度人を殺め、
人殺し象の汚名を着て、
長い時間を鎖で拘束されて過ごすことになる。
その後、山川清蔵さんという飼育員との出会いで、
少しずつ閉ざした心を開いていったと聞く。

わたしがはな子に会いにいくようになったのは、
すでにはな子が穏やかな表情を保っている時代だ。
わたしは、自分でも理由などわからないけれど、
象を見るのが好きだった。
象園ってあるんだったら、きっともっと足繁く通ったに違いない。
そうだ、はな子に会いに行かなきゃあ、と、「フラニーと象医」のメモ書きがわたしを呼んだ。

「フラニーとゾーイー」のラストを読み直す。
そして気づく。
昨日わたしは、足の悪いおばあさんって、記憶を頼りに書いたのだけれど、正しくは「太っちょのおばさま」だった!
一体、どんな変換が、わたしの中で起こっていたのか。
読み直すと、それはやっぱり感動的で、ここに全部タイプして書写したいくらいだけれど、そこだけ読んでも仕方ないのでやめておく。
本屋のアルバイト君は、いつか「象医」ではなくて「ゾーイー」だって知ってくれるだろうか?

ポール・オースターの著作が好きで、ずっと翻訳の初版が出るたびに、翻訳の柴田元幸さんに感謝しながら、すぐに読破してきた。
それが、仕事があまりに忙しくなってしまったために、仕事以外の本を読む時間がなくなってきたこの頃。一昨年出版されていた「幻影の書」を、ようやくわたしは手にとった。
オースターらしく、物語はまず喪失から始まる。
痛々しい、人を滅ぼしてしまう、喪失。
と、主人公の男性が著した書物の話が出てきた。
「アビシニアへの道」というタイトルで、書くことを放棄した作家を論じた本、沈黙をめぐる考察、とある。ランボー、ダシール・ハメット、ローラ・ライディング、J・D・サリンジャー等々、並外れた才能がありながら、何らかの理由で書くのをやめてしまった詩人や小説家についての論説。
……これは読みたい、本当に読みたい。
時折、こういう架空の書に、激しくひかれることが、読書人にはある。

今、わたしの企画集団、Theatre Polyphonicのために谷賢一さんが書いてくれている作品は、まさにそんな架空の書にまつわる話になりそうだ。
その作品が生まれ落ちるまでには、まだ時間がかかりそうだが、今年の10月1日から、11日まで、わたしは間違いなく、その、架空の書にまつわる話を上演しているはずなのだ。大事な仲間たちと。
……時間を信じよう。

本屋では、衝撃的な出会いがあった。
3月30日に出版されたばかりの、「ビギナーズ」
わたしが愛するレイモンド・カーヴァーの短編集だ。
わたしは今、日本で読める短篇を全部読んでいる。
ニューヨーク公演の際に、原語本も全部買い込んで帰ってきた。
一体、「ビギナーズ」って?
立ち読みして、わたしは知る。
彼と、彼の編集者ゴードン・リッシュとの間に、様々な確執があったことは、既知のことだったが、
リッシュによって書き換えられていないカーヴァーのオリジナルが発見されたというのだ。
わたしは、もう一度、カーヴァーに出会い直さなければ。
それは、明日からの話。

今夜はそろそろ仕事に戻らなければ。

ここではな子をたっぷり見ることができる。

2010年4月 4日 (日)

芋蔓式。

一昨日書いた文章に、コメントが寄せられた。
わたしが存じ上げない人で、それでもわたしの文章を読んで下さっている人。
仕事と人間への希求力の強さが感じられて、
クリエイティブなエネルギーが感じられて、
世界の片隅で、小さな小さな仕事しかしていないわたしが言うのもおこがましいが、何か、同志のような匂いすらした。
……思いがけず、活力と優しさのある文章が届けられて、握り拳にじわっと力が入りました。ありがとうございます。

そんな不可視の、ネットの向う側の人たちに思いを馳せていたら、なぜかサリンジャー「フラニーとゾーイー」のラストシーンを思い出した。
ゾーイーがフラニーに、テレビを見ている足の悪いおばあさんの話をすることろ。
たくさんの観客、テレビの視聴者、自分の知らない人々が自分を見ていることに戸惑う時は、足の悪いおばあさんがそこで君を見ていることを思い出せ……というようなことをゾーイーがフラニーに言うのではなかったか。そこでゾーイーは、神の目線を匂わせていたように記憶する。
そこが読みたくて読みたくて仕方ないのに、探しても、あの新潮文庫が見あたらない。
引っ越しをしてから、わたしは本を探してばかりだ。
大量にありすぎて、バルコニーの物置送りにされた本も多い。

こういう時は明日には着くAmazon!って思ったらなんと品切れ。
仕方ない、本屋で直接!って思うが、明日は秩父に赴く日なので、なんたって名古屋出張くらい時間がかかるので、帰りに何軒も寄る時間はない。
池袋ジュンク堂で、店頭取り置きをネット予約。
……そんなことが出来るんだ、今は。なんて便利なんだろう。

かつては大阪旅公演1ヶ月2ヶ月なんてことがしょちゅうあって、お金もないし、一人でいることが苦にならないし、わたしは千日前のジュンク堂書店を遊び場としていた。
まだ東京にジュンク堂が進出していない頃で、あんな風に座り読みさせてくれる本屋は珍しかった。そして蔵書も多いし、高い書架の本を取るための踏み台があちこちに置いてあった。背の低いわたしにはそれも嬉しかったな。
そして、兎小屋みたいなビジネスホテルとジュンク堂をつなぐのは、いつも自転車。
大阪は地下鉄が馬鹿みたいに高い。
だから、歩きか自転車。
2ヶ月滞在の時は、黒門市場の怪しい中古自転車屋で入手していた。レンタルするよりずっと安い。5000円以下で必ず手に入る。で、帰京の前日に難波で鍵を外して乗り捨て。今考えれば、あんまりいいことじゃあないけれど、あの頃は、誰かが「リサイクル」して喜ぶはず、と、なんだか理にかなったことをしているような気がしていた。

サリンジャーが今年1月に亡くなった。
村上春樹さんと柴田元幸さんの対談、「サリンジャー戦記」を読んでから、サリンジャーの独居暮らしのことがとても気になっていた。イノセンスを追求するあまり、世界と断絶して生きているかのようなイメージだった。最近知った、ヘンリー・ダーガーの独居と重なってくる。
でも、実際は、とても穏やかな老後であったらしいことが(インターネット上の情報ではあるが)近所の人たちの証言でわかってきたらしい。
ふと、メイ・サートンを思い出す。「独り居の日記」に衝撃と感銘を受けてから続編を読んでいなかった。

村上さんが訳した「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を読んだ時に、わたしが書いていた書評。
この時、わたしは40歳。

 野崎訳の「ライ麦畑でつかまえて」を読んだのは、中学生だったか高校生だったか。ずいぶん昔のことだし、覚えていたのは、ちっとも面白いと感じず、うざったい読み物として投げてしまったということだけ。
 新訳に出会い、読了し、それにはちゃんとした理由があったのだとわかった。
 わたしはホールデンと似た者同士だったのだ。同じような痛みや憤りを感じていたし、同じように、鼻持ちならない面倒な奴だったのだ。自分だけでも大変なのに、似たようなホールデンのあれこれにまでつきあいきれなかったんだと思う。

 人生の折り返し地点を過ぎて読む村上訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、甘酸っぱい思いに囚われつつ、あの頃の曖昧な感情たちの在処がこみあげるように蘇る、実に実に愛おしい物語だった。
 読んでる間中、わたしはずっとホールデン君に話しかけていた。
「ほら、そんなこと今言わなくったっていいでしょうよ」
「どうしてそうなっちゃうわけ?」
「またそんなわざとらしいことを……」
「なんだ、君、子供のくせして、わかってるじゃない」
「わかる、わかるけどさあ、ほっときゃいいじゃない」
「あーあ、だから言わんこっちゃない……」
 ってな感じで。まるで当時の自分に話しかけるみたいにして。
 
 そして、なんと言っても、ホールデン君にはフィービーがいた。
 フィービーのためにレコードを買う時間、持ち続けた時間があって、バラバラに割ってしまう瞬間があって、その先に、「そのかけらをちょうだい、しまっておくから」と手を差し出すフィービーがいたってこと。そしてまた、フィービーがスーツケースを抱えてきた時間のちょっと先に、回転木馬の時間があったってことだ。
 わたしは、ホールデン君と一緒になって、フィービーが回転木馬に乗る姿を眺めた。わたしも、あやうく大声をあげて泣き出してしまいそうだったし、ぐるぐる回り続けるフィービーの姿が、やけに心に浸みた。ホールデン君が「いや、まったく君にも見せたかったよ」と言うように、わたしもわたしの周りの人に、そのフィービーの姿を見せたかった。

 彼と並んで、あるいは彼を俯瞰して読み進め、物語の最後には、不思議な感じを味わった。 
 わたしはもう、ミスタ・アントリーニの世代だ。彼は実にまっとうな教師でまっとうな人間で、ホールデンへの対し方にも、年齢にふさわしい責任感と愛情が感じられる。わたしはまさしく今、そちら側にいるし、社会に対して、そちら側に立っての責任を担っている。でも、ずっとホールデンの行動につきあった流れでミスタ・アントリーニに出会うと、なんだかホールデンの側に立って、「そんな分かり切ったようなこと聞くのはうざいんだよな」って気持ちにも、なっていたりするのだ。世の中の、正しいとされることへの、嫌悪感不信感っていうのかな。そういう、ちょっと正しいこと当たり前なことに、斜に構えていたいって感じ。
 わたしの中で、かつてのわたしと今のわたしが、対峙する。不思議な感覚。

 この物語は、全編、ホールデンが誰かに語りかける体裁を取っている。彼が誰に向かって語りかけているのかは明示されない。彼は相変わらず当たり前な人生の波に乗り切れていないような感じだし、もしかしたら、精神病院につっこまれてしまっているのかもしれない。とすると、彼の語りは、ちょっと空しいものになる。でも。読後、わたしの心は明るい。「平気、平気。そんなもんでしょ」と彼に伝えたくなる。「ちゃんと生きてれば生きてるほど、わかんないこと多いよ。おかしいと思わないやつらの方がおかしいんだよ」と。ま、16歳を生きるホールデン君にそんなことストレートに言ったって聞いてくれないのは分かってるから、心の中で。「待ってるよ」と告げる。同じものをいっぱい抱える、仲間として。

そしてわたしは50代を前にして、すっかりミスタ・アントリーニの生活をしている。
それでもまだわたしの中に、ホールデン君は居座っていて、新しく、現役のホールデン君たちに出会うたんびに、首をもたげるのだ。
と言うか、最近、ホールデン君みたいな馬鹿で無茶で悩める男の子は少なくって、なんだか型通りの道を歩く男の子が多くって、淋しいことの方が多いかもしれない。
来たれ、ホールデンよ、わたしの前に。

芋蔓式に、止まらない夜。
懸案の仕事は止まったまま進まず。
Power Ponit原稿は成長を止めた。
ただ、芋蔓が伸びるにまかせ、ふらふらした思いだけが夜を過ぎゆく。

『蝋燭』

黄色い舌をゆらめかせ 蝋燭がゆっくりとけて流れゆく。 そうやって僕たち二人も生きているね、 魂は燃え、肉体は融けゆく。

         (アルセーニー・タルコフスキー)

2010年4月 2日 (金)

演劇人として。

今、その行動言動が最も気になる同い年。
平田オリザ氏。
演劇という芸術の危うさも、
見知らぬ人々のかわいらしさも醜さも、
金と政治の理不尽、黒さも、
すべて知った上で、行動する人。この文章を書く人。
新年度にあたって 文化政策をめぐる私の見解
同い年だということにうちひしがれつつ、
この人が身を投じている闘いに、
ずっと心を動かしている。

愛をもらう。

私塾の稽古、終了。
1年目が無事、終わった。

何もないところから、スタートして、ここまで。
確かに大変なことばっかりで、わたしはどれだけか心を砕き時間を割いたけれど、それをすべて喜びに変えてくれた、出会った人たちの稽古場での努力、頑張り。そして、仲間への、わたしへの、愛情。

感動的な稽古納めの後は、
和やかな食事会、打ち上げ。
それだけでも幸せだったのに、
藤代太一くんという将来ある俳優が、
手作りのケーキをサプライズでプレゼントしてくれた。
目の前に、鮮やかに火の灯ったケーキが突然現れた時、
「あれっ、今日誰かの誕生日だったっけ?」
と一瞬、心の中で。わたしは、稽古場で俳優の誕生日を仕切るの慣れているから……。
でも、よく見ると、そこにはわたしの名前が見える。

POLYPHONIC
HAPPY ANNIVERSARY
石丸さん一周年おめでとう

チョコの文字が躍って、
クリームとベリーと飴細工で飾られたケーキのお城の上には、
わたしの大好きなピアノが鎮座ましましている。
ベリーの上には、ト音記号がちょこん。
調理師免許を持っている太一は、
前日深夜のキッチンで、これをこしらえてくれたのだ。
打ち上げ会場が、彼の知り合いの店に変更になって、
彼が手伝いと称してキッチンに入っていたのは、
すべてこのためだったのだ。
その時間。思い。
ありがとうがいっぱいで、涙いっぱい。わたし。

彼だけじゃあなくって、
わたしがみんなにかけた愛は、みんなから倍返し三倍返し……そりゃあもう、でっかくなって返ってきたわけで。

世の中には、たくさんの不幸。
でも今日はわたしは恐れずに、大きく手を広げて幸せを叫ぶ。

そして、世の中には、そりゃあたくさんの幸せな人がいるだろうけれど、
太一の作ったケーキが目に入ったその瞬間、その刹那だけは、
世界でわたしが最も幸せだったと断言する。
いっちばん、いっちばん、幸せだったのは、自明。
この幸せ、自信をもって、歴史に刻んでおくぞ。

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