わたしはかつて、佐野洋子さんの言葉たちに、深く激しく励まされたことがある。
今日、佐野洋子さんが、乳がんで亡くなられたことを知った。
詩と言葉と、絵と風景に溢れ、愛と孤独を知った女性は、どのように死と対峙したのだろう。
「神も仏もありませぬ」というエッセイに助けられた時、
わたしはネット上に書評をあげている。
わたしはいつだって不安とともに生きてきたのだな。
そして、いつだって、逞しい言葉たちに、助けられてきた。
冥福を祈り、感謝の気持ちを捧げたい。
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「神も仏もありませぬ」佐野洋子著
老いてみるのも、いいんじゃないか。
〜怖れや不安を払拭してくれる逞しいことばたち。(2004/02/09)
石丸さち子
洋子さんは、60歳を過ぎて、群馬の山の中に女ひとりで暮らしている。結婚していたこともあるが、今はひとりだ。80代後半の痴呆の母がいるが、老人ホームに預けて今はひとりだ。
鏡の中の崩壊しつつある自分の容姿を眺めて「ウッソー、これ、わたし?」とペテンにでもかかったように思っている洋子さん。
物忘れがひどくなり、仕事への集中力も薄れ、退化していく肉体を悲哀とともに受容する一方、母の看護生活で焼き付いた痴呆への恐怖が内臓のおさまっている暗い場所の底に住み着いているという洋子さん。
10代の時は、人間は40を過ぎれば大人というものになり、世の中をすべて了解するものだと思っていたのに、実際は幾つになっても人は惑い続けるのだということに仰天して暮らしている洋子さん。
このエッセイは、自分が老人になるなんて思ってもみなかった洋子さんが、60代の初老の女となった自分と驚きを持って暮らす、日々の記録だ。そしてその記録の、なんと真っ当で、なんと人間的で、なんと生きる喜びに溢れていることか!
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わたし自身、すでに不惑に達しながら、惑いに惑って暮らしている。それでも、未来と自分自身がすべての価値基準だった思考回路は閉ざされつつあり、その代わり、いよいよ老いること死ぬことが、現実的な不安となって自分に組み込まれている。
夜中、自分のやり直せない時間と死に向かう時間に押しつぶされそうになって、声にならない叫び声をあげたり、寒い夜にひとり寂しい道を歩いていて、「ああ、わたしは斯様にひとりなのだ」と絶望的な孤独感に陥ったり、とにかく、日常に暗い落とし穴が、ぽっかりぽっかり口を開けているんである。
それでも、陽が昇ったり沈んだりの美しさに日々心を奪われるし、それを眺める気持ちは幼い頃から変わっておらず、歳を取るってことは一体なんなんだ、わたしって誰なんだ、と首を傾げつつ生きているんである。そして、不惑を過ぎても何者でもない自分に呆れ、死ぬなんてまだまだとんでもないよ、と、怯えているんである。
洋子さんの文章は、そんなわたしの恐怖や疑問を、ひとつひとつ、「誰だってそうなんじゃないの? わたしだってそうよ」と笑い飛ばしてくれる。誰だって、10代の頃は60代の自分なんて想像できない。誰もが、その年齢に達して、はじめてその年齢の自分と出会い、折り合いをつけながら生きていくのであるなあと、洋子さんの偏見のない心と目が織りあげる文章に共感し続ける。なんだ、歳を取ることは、ちょっと面白そうじゃないかと、老いてみるのもいいじゃないかと、そう思えてくる。
『いつ死ぬかわからぬが、今は生きている。生きているうちは、生きていくより外はない。……いつ死んでもいい。でも、今日でなくてもいいと思って生きるのかなあ。』と言う洋子さんの日常は、驚きや感動や歓びや感謝に溢れていて美しい。
読んでいるわたしの中にも、世界への愛情やら生きていく元気だのが、ふつふつと湧いてくる。人生の先輩の声を聴く歓び、ここにあり。
洋子さんを知ったのは、著書「100万回生きたねこ」。そして、谷川俊太郎氏との共著「女に」で、その結婚を知った。そして今、洋子さんはひとり、山の中、そこで知り合った素敵な友人たちと時間を分け合いながら暮らしている。
「女に」の中に、こんな詩があった。
ともに生きるのが喜びだから/ともに老いるのも喜びだ/ともに老いるのが喜びなら/ともに死ぬのも喜びだろう/その幸運に恵まれぬかもしれないという不安に/夜ごと責めさいなまれながらも
男であり、詩人である谷川氏の詩情を笑い飛ばしてしまうほどのたくましさ、現実的な力が、このエッセイにはある。いやはやかっこいい。出会えてよかった、洋子さんのことばたちに。