« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »

2012年1月

2012年1月17日 (火)

よしなしごと。

何もかも自分でやってたら潰れちゃうって、わかってるんです。
でもね、やっちゃう。
自分の企画に、滅私奉公。
自分がやりたくて立ち上げてる企画なんだから、本質的には滅私じゃなくても、いやもうね、今日みたいにひたすら事務に追われると、「滅私」以外の何ものでもない。
他人の事情にひたすら振り回されて、笑顔を振りまく、事務員石丸さん。
でも、日付が変わって、ようやく少し、芸術家脳に戻りました。
先の仕事の段取りをして、音楽と文字を摂取して、ぬるいビールを開けました。
自分の見たい作品、まだぼんやりしている風景が、もう少し我が目の奥にはっきり像を結んだら、俳優に声をかける。言葉を並べ始める。
ぬるいビールを飲みながら、まだわたしにしか見えない風景に目を凝らす。

昨日の夜も、なんだかわたしは、谷川さんの詩にかこつけて気障なことを書いておる。
まあ、そんなことを書きたくなるくらい、ジェットコースター人生を送っているのでね。
谷賢一氏に、「石丸さんのブログ、訳わかんないですよね?」って言われた気がする。
そりゃあそうでしょう。とても人には言えないことを抱えつつ書いているのだもの。
そのまんまなんて、絶対書けないんだもの。
……どんだけか落ち着かない50歳です。
笑えます。
ここまで人生を棒にふっているので、何とか、作品だけは立派に世に送り出したいと思います。
自分の名前で看板あげて、働きだして、ようやく4年目なんだもの、わたしは。

私塾の俳優、遼だって、穂高だって、ある意味、わたしの作品だって思ってる。
精魂こめて、わたしは彼らの可能性を見いだし、磨く、磨く。
時間がかかっても、未来の輝きを信じて、丁寧に丁寧に磨く。
そして、いつか、できれば早いこと、自分で自分を磨けるようになってほしい。
作品は、世に送り出してこそ、意味がある。

深夜の空きっ腹ビールが、ちょっと効いてくる。
酔うたびに、わたしは、己が心の謎について考える。
自分以外の他者を愛するってことの謎の深さに迷いこむ。

こうして書いているうちに、どうやら酔った谷賢一氏が(また出てきた……)連続ツイートしている。
演劇の興奮を冷ませない男がいるぞ。
昼間には、ずっとわたしの脳裏にいる俳優からハガキが届いて、事務所が変わったことを知る。
すごい転機だな、と思わせる、移転。
色んな人生が動いている。
わたしも動いている。
本当に、50歳にして、どうしようもなく揺れてるの。
おかしいよ。
人生を設計するという観念、ゼロ。
22歳くらいで、自分がアウトサイダーだって気づいたけど、まさかこの歳までそうで在り続けるなんて、思いもしなかった。
ひどいものだ。
でも、人生はこれからだ。

2012年1月16日 (月)

我がドタバタ喜劇を想う。

こんなに長らく書かなかったのか、と、思う。
日々、やるべきことをひたすらにこなし、
日々、大切にしたい人たちをひたすららに大切にしたいと願い、
日々、心を揺らして。
過ごしていた。
やりたいことはあり過ぎて、24時間じゃちっとも追いつかず。
いい歳して、相変わらず1度にたくさんのことを考えるのが下手で、
ひとつ、ひとつと、向き合って過ごした、
その時間の積み重ね。

予想もしなかった、今日が来る。
感動したり、心震えたり。
そんな今日の積み重ねが、
それでも着実に、明日を連れてくる。
わたしの明日を輝かせてくれるのは、
わたしの今日の過ごし方。
きっとそうに違いないので、
とにかく、ひたむきに過ごす。
今、素直に、大事だと思うもの、思うことに、
真っ直ぐな気持ちで立ち向かう。

今日は、個人レッスンの日だった。
このところ、幾つかの個人レッスンが続いて、
自分の4時間ほどの限られた時間が、
どれほど人に影響できるかを、
考えた。
私塾の、日常の稽古を続けながらも、考えた。
……演出家なんて商売を続ける限り、
わたしは土足で人の心にあがり続ける。
その怖さはもちろん知っているから、
ちゃんと靴を脱いであがろうとするのだけれど、
「入ってもいいですか?」と声をかけようとするのだけれど、
やはり時折は、意識的に、土足でずかずかと上がり込む。
ある時、人は、わたしを押し出して扉を固く閉ざし、
ある時、人は、裸になってわたしと抱き合う。

谷川俊太郎さんの詩の一節に、こんなのがある。
「午前二時のサイレント映画」という詩の一節。
詩の一節を抜き書くことに意味なんてないと知りつつ、
あえて抜き書こう。
こんな一節。

人はたったひとつの自分の一生を生きることしか出来なくて あといくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わる でもそのひっかきかたに自分の一生がかかっているのだ それがドタバタ喜劇にすぎなかったとしても

今にも火を噴きそうな心を抱えて、
自分に隣り合おうとしてくれる人々のことを考える。

いいよ、たとえそれがドタバタ喜劇でも、
わたしは手を伸ばす。
人と歩み寄ることで受ける、かすり傷。
苦い傷を負った体を、癒えぬまま渦中に投げ出す勇気は、まだまだある。
傷を舐めて、甘いと思える生命力も、まだまだある。

喜びたい。明日を。


2012年1月 8日 (日)

無題。7/366。

・私塾の女性のテキストに、岸田國士の「葉桜」を選んで読んでみた。孟母と猛母のあわいにある、一生もののやっかいな「女」性。
岸田愛國士熱が再燃していたところに、今日、個人レッスンの俳優が持ってきたテキストが、「動員挿話」だった。またまた、和代という現代的自我を持った女の言葉に、新しい発見。
声に出さないと、心を動かさないと、そこに俳優がいてくれないと、発見できないことが多い。
……岸田國士の勉強会を開きたい。仲間を募りたい。

・松の内が過ぎた。実家→愛媛の4日間から戻ってからは、気が遠くなるほどTo Doをこなした。さっきあがった一曲で、ようやく一区切り。明日から次の大きなテーマに向かおう。だから、明日のために眠らなきゃいけないんだけど、例によって、冴えまくっていて、興奮していて、眠れない。
こういう時、とりあえず、「無題」というタイトルをふって、よしなしごとを書き始める。

・こりっちという、小劇場中心の演劇サイトの掲示板に、私塾の募集案内を載せたら……知らない間に恐ろしいくらいクリック数が伸びている。掲示板でダントツ一位になっちゃってて、ちょっと戸惑う。
わたしの名前はたいして有名じゃないし、一体何にひかれて多くの人がクリックをしてくれているのか……。しばし考えこんでしまった。何かそこに、大事な情報が眠っている気がして。
そして、問合せも申込も、その割には大して来ていないわけで。
これは何だか、やっぱりすごく大きなヒントな気がするな。
みんな、何を求めているんだろう?

わたしが求めているのは、シンプル。
俳優と出会いたい。
開かれた稽古場を作りたい。
稽古場で、いろんな俳優と、いろんな時間を過ごしたい。
演劇で遊びたい。演劇で、生きていることを確かめたい。
そして、俳優という職業を、深くリスペクトしている。
だから、わたしは一緒に走りたいのだ。

・独立して以来、知り合ってきた大事なスタッフから、チーム石丸で「快走できそうです!」「面白いことやりましょう!」と、言葉が届く度に、背筋が伸びる。
何もないところに、ひとつの作品が生まれる。
わたしが此の世に生まれていなければ、生まれなかった作品が生まれる。
どんなクリエイターだって、そんな小さな奇跡を起こし続ける。
自分が生まれたってことに驚きながら。
自分を生んでくれた両の親を思いながら。
さあ、わたしは今年、どんなものを作るのか?

2012年1月 1日 (日)

「ありふれた母と娘の話」全文。


母のもとに帰ると決めた時、 In-projectでの作品を見せてあげるかどうか、すごく悩んだ。
母の物語。母のために作ってもらった歌。
でも、記録映像を見せるのはやめた。
だって、わたしが隣にいるだけで満足そうなんだもの。
でも、何となく、どういうノリか、隣にいる母の物語を、もっとたくさんの人に知ってほしくなってしまった。

以下、長いですが、11月に上演した「ありふれた母と娘の話」の台本最終稿です。
興味のある方、どうぞ読んでみてください。
♩のところは、伊藤靖浩さんの作曲で、歌になりました。

+++++++++++

(最初、セーラー服を着た石丸による、野田秀樹作品の引用があり)

これは、野田秀樹さんが書かれた「売り言葉」という戯曲の冒頭です。高村光太郎の奥さん、智恵子抄で有名な高村智恵子さんをモデルにしたものなんですけど、わたしが一七歳の時、母に、「東京に出ていきます! 早稲田大学の演劇専攻に行きたいんです! いいでしょ?」って切り出した時も、ちょうど、こんな感じでした。あ、でもちょっと違うか。泣いたのは母です。もう、めちゃくちゃ学問のない感じで泣きました。わーーーーーって、天井向いて泣きました。犬が!って泣きました。そりゃもう、家に火をつけそうな勢いでした。父が母を止めて、
「お前が急にそんなびっくりさせるようなこと言うもんやから、ママ、興奮してもうたやろ。……ほら、あんたも、そんな泣かんでもええやろ?」
「泣かんとおられへんわ。パパはさち子がおらんようになってええん? ママはよう我慢でけへんわ。淋しいやんか! 犬がーーー」って泣いた。かなり学問のない感じで。これみよがしに大きく息を吸って、絶対泣き止んでやるもんかって子どもみたいに頑なに、横隔膜を、こう、震わせ続けて。とんでもないパワーだった。わたしはと言えば、母親が娘の前であられもなく泣くという、その非常事態にパニック状態。大体ね、親が子どもの前でそんなに感情を露わにして取り乱すなんて、想定外。そんな時にできるわたしの抗戦の仕方はただひとつしかない、負けないくらいに泣く。わーーーーーー! ああーん、ああーん、ああーん、ああーん! わーーーーーー! ああーん、ああーん、ああーん、ああーん……。 
とんでもなく熱苦しい母と娘の間に挟まれて、父よ、あなたはえらかった。それっくらいがむしゃらに泣いたら、疲れてしまいに泣き止むってことを知ってたのね、何も言わずに、母と娘を泣かせてくれた。
どこにでもある、母と娘の別れの儀式でした。兵庫県と東京に別れて暮らして、もう三十二年です。
母は、ふだんは、一切泣いたりしません。笑うことに忙しくって。ひまわりみたいに明るく強い母なんです。
父が仕事に失敗してから、経済的にも、うちの大黒柱でした。

今日は、そんな、わたしの母の、呼吸と鼓動、心臓と肺の話を聞いてください。

わたしの母の心臓は、止まったことがあります。大動脈瘤の手術をした時。母の心臓は動きを止めて、人工心肺装置という医療機器が、心臓と肺の代わりをしてくれました。人工心臓が血液を体の外に送り出して、人工肺が血液に酸素を送り込んで、体に戻してくれるんです。
1日がかりの手術を待つ間……もう、本当に長かった。これが永遠かと思った。余計なことばっかり考えるので、わたしは生まれてからその時に至るまでの、自分と母の物語をすべて復習しました。家族の思い出、全部。作ってくれた美味しいごはんのいろいろ。彩りもきれいで、友達が来た時なんか、もう、すっごく自慢だった。音痴なくせに、父兄の合唱に出たらいちばんにこにこして歌うから、一番歌が上手そうに見えた。家族で行った旅行のいろいろ。手をつないで、市場に買い物に行った、歌を歌いながら。自転車の乗り方を教えてくれた、折り紙を教えてくれた。わたしが東京に出てきてからは、わたしの心や体の調子が悪くなると、何も言ってないのに、なぜか察知して、電話してきてくれる。あと、送ってくれた数え切れない宅急便。まだクール宅急便とかない時に、平気でおにぎりとか握って送ってくれた。ひどい時は手作りコーヒーゼリーが入ってた、それは無理! そんなくだらないことばっかりなんですけど、とにかく、いろいろ、本当にいろいろ、ランダムに、母との時間を復習しながら、手術の終わりを待ちました。

「石丸さん、面会できますよ」
わたしは、呼吸を整えて、自動ドアを何回も通って、母に会った。

  ♩眠ってるおばあさん、死んだみたいに……でも生きててくれた。
  たくさんの機械が、ママにつながっている。
  自分の心臓じゃ、まだだめなんだね。
  機械が、ママの代わりに心臓を打ってくれてる。
  呼吸してくれてる。      
  神さまみたい、あんなに血を巡らせて。生かしてくれてる。♩

1週間後、ずっと母は眠ったまんまで。……人工心肺装置に頼る期限が来ましたと、担当医の先生に告げられました。装置を外して生きのびるかどうかは、患者さんの生命力次第だ、とも言われました。わたしも父も、ちょっと母を見くびっていました。今思えば、生命力なら、誰にも負けないでしょ?って人なんです。でも、その時はもう、自分の息が止まりそうになりながら、見守りました。でも、生命力万歳、母の心臓と肺は、人工心肺装置とお別れした後、こころもとなくも、働き始めました。……でも、母は目覚めなかった。
次に先生は、奇跡でも起きない限り目覚めるのは無理かもしれませんと、父に告げました。医者が奇跡という言葉を使うのもどうなの? と思いましたが、よほど可能性がなかったので、奇跡なんて言葉でショックを少し和らげたんだと思います。


♩心臓は、魂が住んでる場所だって、母がいつか教えてくれた
心臓が止まっている間、手術をしてる間、母はどこにいたんだろう?
心臓が動き出しても、眠ってる間、母はどこで迷ってたんだろう?


どれほど疲れていたんだろう?
働いて働いて 笑って笑って 心配して心配して 笑って笑って

ごめんね、ママ ママ 離れてしまって
ごめんね、ママ ママ 会いにも帰らないで

ママの時間は足踏みして 終わるかどうか考えてた
疲れた魂はちょっとお休み 機械に任せて休んでた

どこにいるの ママ 夢を見ているの?
どこにいるの ママ そこにわたしはいる?
戻ってきて ねえ 一緒にごはん食べたい
帰ってきて ほら 家族集合したよ!

そして二十日後に奇跡は起きた……母は前触れもなく帰ってきた! ♩


奇跡が……起こっちゃったんです。二十日ほどたって、母は、思いついたように、目を覚ましたそうです。
一番びっくりしたのは担当医の先生。そしてもちろん、一番喜んだのは、その時、目の前にいた父。でも、長い夢から醒めるとき、大きな大きなおみやげを持って帰ってきたんです。母は、今までの時間の記憶を全部なくしていました。それは、人工心肺装置にお世話になったことからくる合併症。血栓ができ、脳梗塞になっていたんです。なんだか暗い展開ですが、意外や意外、ここからはラブストーリーです。

新しい母にとって、目の前にいる見慣れない男の人は、いつも誰より優しい人だった。
話しかけてくれて、ご飯を食べさせてくれて、着替えさせてくれて、洗濯してくれて、痛いところをさすってくれて、帰る時には「暴れんとよう寝えや、明日また来るさかいな」と笑って帰って、また朝になると来てくれる。
……一切記憶のなかった母は、改めて、父が大好きになりました。それまでずっとずっと大好きな人だった人との時間をすっかり忘れて、それから、もう一度、父に二度目の恋をしたんです。
母は、じっくり一年ほどかけて、すべての記憶を取り戻すという二つ目の奇跡を起こしますが、記憶を取り戻して娘のさち子に戻ったわたしに、自分の二度目の恋をたどたどしく、嬉し楽し恥ずかしげに、話してくれました。こんな風に。


♩わがままばっかり言ってても 大きな手で撫でてくれた
パパが待っててくれたから ママは戻って来れたのかな?
ありがとう、パパ そばにいてくれて
ありがとう、パパ 大事にしてくれて♩


手術の後遺症で、確かに、長い間歩けませんでした。ずっとリハビリし続けています。でも、それも父と一緒だと、頑張ると誉めてもらえる毎日の楽しいゲーム。あと、脳梗塞が進んで、目が見えなくなった時期もありました。でも、それだって……。
わたしが会いに帰ったときに「久しぶりに会えたのに……あんたの顔が見れたらどんなに嬉しいか」ってぽろぽろ涙をこぼして、わたしの顔を撫でさすって確かめたりするものだから、わたしも母が見えないのをいいことに、ぽろぽろ涙をこぼしてたんですけど……その後、隣に並んで一緒に食事をしている時に、わたしがちょっと食べこぼしたら、「ほら、またこぼした!」って、云うんですよ。「なんや、見えてるやんか!」と突っ込むと、泣き真似をして見せて「たまーに見えるんや、たまーにやで!」と言い訳してみせたりして。「何? もう、その根の明るさは? どんだけ心配した思てんのよ?」とか何とか言いながら、その時、わたしは「ああ、この人は大丈夫だ」って、思いました。人工心肺装置に繋がれている時、母の体の血がぐるんぐるんと巡っているのをずっと見ていましたが、あの赤い、奇跡を起こせる血が、わたしの中にも流れてるんだって、そう考えると元気になります。


♩ 漲って 迸って 息を呼び 息を吐き
血は巡り また歩き出す 夢から醒めて この世界を

ごめんなさい ありがとう 言葉にして 笑顔にして
血は巡り 明日を生きる このつながり 信じて

漲って 迸って この体 生きている
ゆるがない 鼓動信じ 命の重さ 感じよう 
  LaLaLaLaLa−−−−−−−−♩

母は、今、とても元気です。普通の、物忘れの激しいおばあさんくらいの感じです。父と一緒なので、幸せだ幸せだと、いつも電話でのろけています。
でも、もう、難しい話はできません。人生についてとか、語れません。娘にとって、何でも言える世界でただ一人の人に戻ってきてほしいとも思いますが、まあ、それは望みすぎってもので。
でも、それでも。一度、わたしが本当に参っている時に、母は夢に出てきてくれたことがあるんです。
夢の中の母は、40代、今のわたしと同じ年頃の、働き盛りの母の姿でした。夢の中のわたしは、中学生くらいでした。

家は、父が仕事で失敗してから、母が一人で宝石屋を始めて、経済的に家族を支えていてくれたんです。父のサポートがあるとは言え、女が一人で外で仕事していて、楽なことばかりであるわけがない。一手にたくさんの人生しょいこんで、しんどくないわけがない。それは、今のわたしにはよくわかります。
夢の中で母は、かっちりしたスーツを着て、つばの広い優雅な帽子をかぶって、いつものように颯爽と仕事に出かけて行った。わたしは一人で留守番をしていて。しばらくしてから、離れにある事務所から、何か物音がするのを感じて、怖くなって、恐る恐る、のぞいてみました。すると、仕事に行ったはずの母がいる。
スーツを脱いでスリップ姿のまま、帽子をテーブルに投げ出して、事務机につっぷして寝ている。
眠りの足りない人が喘ぐように寝ている。
寝ながら泣いている。
ふと、母がわたしの視線に気づく。
仕事に行くと偽って家を出て、事務所で眠っていたことを後ろめたく思っている様子はないんです。
ただ、虚ろにわたしを見ている。
そして言う。
「さち子、それうとて。(歌って)」
帽子の横に、しわくちゃの紙がある。
手に取ると、有名な聖歌の歌詞が書いてある。
わたしはミッションスクールに通っていたから、その聖歌を歌ったことがあった。
中学生のわたしは、しわくちゃな紙を見ながら、声もなく泣いている、母の前で歌った。
歌詞を全部覚えていたけれど、紙を見ながら歌った。
わたしはどこかで、自分が夢を見ていると気がついていて、目の前の疲れた人が、母なのかわたしなのか、わからなくなってしまった。
夢の中で、母とわたしは寄り添っていた。一緒に息をしてたと思う。一緒に歌っていたと思う。

(聖歌「慈しみ深き」)

慈しみ深き
友なるイエスは

罪、咎、憂いを取り去り給ふ

心の嘆きを包まず述べて

などかは下ろさぬ
負える重荷を

慈しみ深き
友なるイエスは

我らの弱きを知りて憐れむ
悩み 
悲しみに沈める時も

祈りにこたえて
慰め給わん

慈しみ深き
友なるイエスは

変わらぬ愛もて導き給ふ

世の友我らを棄て去る時も

祈りにこたえて
労り給わん
(聖歌 終わり)

世界中の母に感謝。
世界中の、母を愛した父に感謝。
そして、人生は続く。

新しい年を迎えて。

新しい年を迎えて。
2012年1月1日。
実家の姫路を目指して、新幹線に乗っている。
車窓から差し込む日差しは暖かくまろやかで、たたいているキーボードに、光と影を分ける柔らかな線を落としている。
駅ビルでは、初売りの声が賑やかだったし、例年初詣に訪れる八幡様は、新年を祝う人たちで溢れかえっていた。神の住居の社は、ハレの日の照明に照らされていつもより朱塗りが艶やかに見えた。
街は、例年と変わりなく、生き生きと希望に満ちて新年を迎えたように見える。
冬の陽は街の輪郭をすっきりくっきりと顕して、潔い。
ただ、わたしの目の届かないところに、わたしの手の届かないところに、例年のように新年を迎えることのできない人たちがいるし、それに思いを馳せることは、いつだっていつだって、目の届かないことばかりの世界、手の届かないことばかりの世界に、自分は生きているのだと思い知ることだ。
でも、希望はある。
この小さなわたしにも、目の届く人たちがたくさんいる。手が届く人たちがたくさんいる。そこで、どこまで、この命を生かせるか。
そしてまた、表現の仕事をしているのだから、小さな世界を広げる可能性だってある。演劇という、あまねく知ってもらいにくい表現形態であっても、ある。
素人みたいな物言いだが、実際、歳遅くして独立してからのわたしは、自分の表現を身の回りにしか発表してこなかった。

今年の目標は、表現と幸福の飛距離を伸ばすことだ。

こうして書いているうちにも、関東地方で地震が起きたと知る。言葉は無力だが、言葉の力を忘れては何の表現もできない、わたしは。

昨日ね、初詣で、お決まりの場所ではお決まりのおみくじをひいたんです。大吉で、あまりにも素晴らしい言葉が並んでいて、「今年のあんたはいいよ~いいよ~、何やってもいいよ~あと足りないのは王者の風格だけだね」なんて書いてあって、笑えるくらいおだてられて、いい気分になりました。
わたしは基本、占いを信じない人なのに。……単純なものです。
自分のために、人のために、上手に言葉を使っていく。
これは、わたしの仕事ね。

そうこうしているうちに、実家に到着し、母の隣で書いている。正月に帰るなんて、もう、前はいつだったか覚えていない。正月はいつも仕事をしていたからなあ。
11月のINーProjectで、母の人生を語って歌ってから、ずっと会いたかった。隣にいると、それだけで、いい。
話したことをすぐに忘れちゃうので、別に何を話す訳でもない。父に近況を報告してから、母のそばに、ただ、いる。隣で、しばし嬉し泣きが続いたあと、にこにこして並んでいる。
幸せだ。
時間がゆっくり、ゆっくり、流れる。
この時間の中で、わたしを支えてくれる人たち、昨年出会った人たち、これから出会う未知の人たちを思う。

ありがとう。そして、今年もよろしくお願いします。

« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »