母のもとに帰ると決めた時、 In-projectでの作品を見せてあげるかどうか、すごく悩んだ。
母の物語。母のために作ってもらった歌。
でも、記録映像を見せるのはやめた。
だって、わたしが隣にいるだけで満足そうなんだもの。
でも、何となく、どういうノリか、隣にいる母の物語を、もっとたくさんの人に知ってほしくなってしまった。
以下、長いですが、11月に上演した「ありふれた母と娘の話」の台本最終稿です。
興味のある方、どうぞ読んでみてください。
♩のところは、伊藤靖浩さんの作曲で、歌になりました。
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(最初、セーラー服を着た石丸による、野田秀樹作品の引用があり)
これは、野田秀樹さんが書かれた「売り言葉」という戯曲の冒頭です。高村光太郎の奥さん、智恵子抄で有名な高村智恵子さんをモデルにしたものなんですけど、わたしが一七歳の時、母に、「東京に出ていきます! 早稲田大学の演劇専攻に行きたいんです! いいでしょ?」って切り出した時も、ちょうど、こんな感じでした。あ、でもちょっと違うか。泣いたのは母です。もう、めちゃくちゃ学問のない感じで泣きました。わーーーーーって、天井向いて泣きました。犬が!って泣きました。そりゃもう、家に火をつけそうな勢いでした。父が母を止めて、
「お前が急にそんなびっくりさせるようなこと言うもんやから、ママ、興奮してもうたやろ。……ほら、あんたも、そんな泣かんでもええやろ?」
「泣かんとおられへんわ。パパはさち子がおらんようになってええん? ママはよう我慢でけへんわ。淋しいやんか! 犬がーーー」って泣いた。かなり学問のない感じで。これみよがしに大きく息を吸って、絶対泣き止んでやるもんかって子どもみたいに頑なに、横隔膜を、こう、震わせ続けて。とんでもないパワーだった。わたしはと言えば、母親が娘の前であられもなく泣くという、その非常事態にパニック状態。大体ね、親が子どもの前でそんなに感情を露わにして取り乱すなんて、想定外。そんな時にできるわたしの抗戦の仕方はただひとつしかない、負けないくらいに泣く。わーーーーーー! ああーん、ああーん、ああーん、ああーん! わーーーーーー! ああーん、ああーん、ああーん、ああーん……。
とんでもなく熱苦しい母と娘の間に挟まれて、父よ、あなたはえらかった。それっくらいがむしゃらに泣いたら、疲れてしまいに泣き止むってことを知ってたのね、何も言わずに、母と娘を泣かせてくれた。
どこにでもある、母と娘の別れの儀式でした。兵庫県と東京に別れて暮らして、もう三十二年です。
母は、ふだんは、一切泣いたりしません。笑うことに忙しくって。ひまわりみたいに明るく強い母なんです。
父が仕事に失敗してから、経済的にも、うちの大黒柱でした。
今日は、そんな、わたしの母の、呼吸と鼓動、心臓と肺の話を聞いてください。
わたしの母の心臓は、止まったことがあります。大動脈瘤の手術をした時。母の心臓は動きを止めて、人工心肺装置という医療機器が、心臓と肺の代わりをしてくれました。人工心臓が血液を体の外に送り出して、人工肺が血液に酸素を送り込んで、体に戻してくれるんです。
1日がかりの手術を待つ間……もう、本当に長かった。これが永遠かと思った。余計なことばっかり考えるので、わたしは生まれてからその時に至るまでの、自分と母の物語をすべて復習しました。家族の思い出、全部。作ってくれた美味しいごはんのいろいろ。彩りもきれいで、友達が来た時なんか、もう、すっごく自慢だった。音痴なくせに、父兄の合唱に出たらいちばんにこにこして歌うから、一番歌が上手そうに見えた。家族で行った旅行のいろいろ。手をつないで、市場に買い物に行った、歌を歌いながら。自転車の乗り方を教えてくれた、折り紙を教えてくれた。わたしが東京に出てきてからは、わたしの心や体の調子が悪くなると、何も言ってないのに、なぜか察知して、電話してきてくれる。あと、送ってくれた数え切れない宅急便。まだクール宅急便とかない時に、平気でおにぎりとか握って送ってくれた。ひどい時は手作りコーヒーゼリーが入ってた、それは無理! そんなくだらないことばっかりなんですけど、とにかく、いろいろ、本当にいろいろ、ランダムに、母との時間を復習しながら、手術の終わりを待ちました。
「石丸さん、面会できますよ」
わたしは、呼吸を整えて、自動ドアを何回も通って、母に会った。
♩眠ってるおばあさん、死んだみたいに……でも生きててくれた。
たくさんの機械が、ママにつながっている。
自分の心臓じゃ、まだだめなんだね。
機械が、ママの代わりに心臓を打ってくれてる。
呼吸してくれてる。
神さまみたい、あんなに血を巡らせて。生かしてくれてる。♩
1週間後、ずっと母は眠ったまんまで。……人工心肺装置に頼る期限が来ましたと、担当医の先生に告げられました。装置を外して生きのびるかどうかは、患者さんの生命力次第だ、とも言われました。わたしも父も、ちょっと母を見くびっていました。今思えば、生命力なら、誰にも負けないでしょ?って人なんです。でも、その時はもう、自分の息が止まりそうになりながら、見守りました。でも、生命力万歳、母の心臓と肺は、人工心肺装置とお別れした後、こころもとなくも、働き始めました。……でも、母は目覚めなかった。
次に先生は、奇跡でも起きない限り目覚めるのは無理かもしれませんと、父に告げました。医者が奇跡という言葉を使うのもどうなの? と思いましたが、よほど可能性がなかったので、奇跡なんて言葉でショックを少し和らげたんだと思います。
♩心臓は、魂が住んでる場所だって、母がいつか教えてくれた
心臓が止まっている間、手術をしてる間、母はどこにいたんだろう?
心臓が動き出しても、眠ってる間、母はどこで迷ってたんだろう?
どれほど疲れていたんだろう?
働いて働いて 笑って笑って 心配して心配して 笑って笑って
ごめんね、ママ ママ 離れてしまって
ごめんね、ママ ママ 会いにも帰らないで
ママの時間は足踏みして 終わるかどうか考えてた
疲れた魂はちょっとお休み 機械に任せて休んでた
どこにいるの ママ 夢を見ているの?
どこにいるの ママ そこにわたしはいる?
戻ってきて ねえ 一緒にごはん食べたい
帰ってきて ほら 家族集合したよ!
そして二十日後に奇跡は起きた……母は前触れもなく帰ってきた! ♩
奇跡が……起こっちゃったんです。二十日ほどたって、母は、思いついたように、目を覚ましたそうです。
一番びっくりしたのは担当医の先生。そしてもちろん、一番喜んだのは、その時、目の前にいた父。でも、長い夢から醒めるとき、大きな大きなおみやげを持って帰ってきたんです。母は、今までの時間の記憶を全部なくしていました。それは、人工心肺装置にお世話になったことからくる合併症。血栓ができ、脳梗塞になっていたんです。なんだか暗い展開ですが、意外や意外、ここからはラブストーリーです。
新しい母にとって、目の前にいる見慣れない男の人は、いつも誰より優しい人だった。
話しかけてくれて、ご飯を食べさせてくれて、着替えさせてくれて、洗濯してくれて、痛いところをさすってくれて、帰る時には「暴れんとよう寝えや、明日また来るさかいな」と笑って帰って、また朝になると来てくれる。
……一切記憶のなかった母は、改めて、父が大好きになりました。それまでずっとずっと大好きな人だった人との時間をすっかり忘れて、それから、もう一度、父に二度目の恋をしたんです。
母は、じっくり一年ほどかけて、すべての記憶を取り戻すという二つ目の奇跡を起こしますが、記憶を取り戻して娘のさち子に戻ったわたしに、自分の二度目の恋をたどたどしく、嬉し楽し恥ずかしげに、話してくれました。こんな風に。
♩わがままばっかり言ってても 大きな手で撫でてくれた
パパが待っててくれたから ママは戻って来れたのかな?
ありがとう、パパ そばにいてくれて
ありがとう、パパ 大事にしてくれて♩
手術の後遺症で、確かに、長い間歩けませんでした。ずっとリハビリし続けています。でも、それも父と一緒だと、頑張ると誉めてもらえる毎日の楽しいゲーム。あと、脳梗塞が進んで、目が見えなくなった時期もありました。でも、それだって……。
わたしが会いに帰ったときに「久しぶりに会えたのに……あんたの顔が見れたらどんなに嬉しいか」ってぽろぽろ涙をこぼして、わたしの顔を撫でさすって確かめたりするものだから、わたしも母が見えないのをいいことに、ぽろぽろ涙をこぼしてたんですけど……その後、隣に並んで一緒に食事をしている時に、わたしがちょっと食べこぼしたら、「ほら、またこぼした!」って、云うんですよ。「なんや、見えてるやんか!」と突っ込むと、泣き真似をして見せて「たまーに見えるんや、たまーにやで!」と言い訳してみせたりして。「何? もう、その根の明るさは? どんだけ心配した思てんのよ?」とか何とか言いながら、その時、わたしは「ああ、この人は大丈夫だ」って、思いました。人工心肺装置に繋がれている時、母の体の血がぐるんぐるんと巡っているのをずっと見ていましたが、あの赤い、奇跡を起こせる血が、わたしの中にも流れてるんだって、そう考えると元気になります。
♩ 漲って 迸って 息を呼び 息を吐き
血は巡り また歩き出す 夢から醒めて この世界を
ごめんなさい ありがとう 言葉にして 笑顔にして
血は巡り 明日を生きる このつながり 信じて
漲って 迸って この体 生きている
ゆるがない 鼓動信じ 命の重さ 感じよう
LaLaLaLaLa−−−−−−−−♩
母は、今、とても元気です。普通の、物忘れの激しいおばあさんくらいの感じです。父と一緒なので、幸せだ幸せだと、いつも電話でのろけています。
でも、もう、難しい話はできません。人生についてとか、語れません。娘にとって、何でも言える世界でただ一人の人に戻ってきてほしいとも思いますが、まあ、それは望みすぎってもので。
でも、それでも。一度、わたしが本当に参っている時に、母は夢に出てきてくれたことがあるんです。
夢の中の母は、40代、今のわたしと同じ年頃の、働き盛りの母の姿でした。夢の中のわたしは、中学生くらいでした。
家は、父が仕事で失敗してから、母が一人で宝石屋を始めて、経済的に家族を支えていてくれたんです。父のサポートがあるとは言え、女が一人で外で仕事していて、楽なことばかりであるわけがない。一手にたくさんの人生しょいこんで、しんどくないわけがない。それは、今のわたしにはよくわかります。
夢の中で母は、かっちりしたスーツを着て、つばの広い優雅な帽子をかぶって、いつものように颯爽と仕事に出かけて行った。わたしは一人で留守番をしていて。しばらくしてから、離れにある事務所から、何か物音がするのを感じて、怖くなって、恐る恐る、のぞいてみました。すると、仕事に行ったはずの母がいる。
スーツを脱いでスリップ姿のまま、帽子をテーブルに投げ出して、事務机につっぷして寝ている。
眠りの足りない人が喘ぐように寝ている。
寝ながら泣いている。
ふと、母がわたしの視線に気づく。
仕事に行くと偽って家を出て、事務所で眠っていたことを後ろめたく思っている様子はないんです。
ただ、虚ろにわたしを見ている。
そして言う。
「さち子、それうとて。(歌って)」
帽子の横に、しわくちゃの紙がある。
手に取ると、有名な聖歌の歌詞が書いてある。
わたしはミッションスクールに通っていたから、その聖歌を歌ったことがあった。
中学生のわたしは、しわくちゃな紙を見ながら、声もなく泣いている、母の前で歌った。
歌詞を全部覚えていたけれど、紙を見ながら歌った。
わたしはどこかで、自分が夢を見ていると気がついていて、目の前の疲れた人が、母なのかわたしなのか、わからなくなってしまった。
夢の中で、母とわたしは寄り添っていた。一緒に息をしてたと思う。一緒に歌っていたと思う。
(聖歌「慈しみ深き」)
慈しみ深き
友なるイエスは
罪、咎、憂いを取り去り給ふ
心の嘆きを包まず述べて
などかは下ろさぬ
負える重荷を
慈しみ深き
友なるイエスは
我らの弱きを知りて憐れむ
悩み
悲しみに沈める時も
祈りにこたえて
慰め給わん
慈しみ深き
友なるイエスは
変わらぬ愛もて導き給ふ
世の友我らを棄て去る時も
祈りにこたえて
労り給わん
(聖歌 終わり)
世界中の母に感謝。
世界中の、母を愛した父に感謝。
そして、人生は続く。