3月11日の公演が幸福に終わってから、幸福とは言いがたい時間が続いていた。
今日は非常に個人的な文章を書こうとしている。
心に何らかの蓋がされていて、その正体をつきとめるような時間を送っていた。
完全な精神の不調というわけではなく、稽古場に行くと発見は今まで通りあった。
心が動き出す。
ただ、演劇の現場を離れたとたん、わたしの心は行き場を喪って、ふらふらと彷徨いだす。
近しい人の心身の病気に対応、手当すること、それによって自分の心身の調子が乱れてしまうこと。これは、すべてものすごく、時間を要すること。
10月の作品の準備で英詞の歌を膨大に聴いて、さらに本を書くという仕事がひかえている。また、もうすぐ発表できると思うけれど、7月末に、急遽公演することになった。わたしにとっては心ときめく企画だが、すべて一人で準備している今は、目の前の山は高い。
こうして、とにかく時間の欲しい時に、仕事できない時間が過ぎていくあせり。
この時間を奪われるあせりというやつ、これは心の蓋の構成物としては、かなりな割合を占めるんじゃないだろうか。
落ち着いて、長い目で見れば、近しい人たちの心身につきあうことこそ、わたしの人生じゃないか。それはわかる。それはわかるのだが……。わかっているくせに、自分の腑に落とせないというのが、心に蓋がされている状態。
仕事のあせりで、周囲の人が見えなくなっている。
年をとって、生き方が巧妙になってきているので、人にばれるほどじゃない。
でも、自分にとっては致命的な、他人に対する思いやりのなさを自分で感じている。
それでも、稽古場に行けば、いつもの平衡感覚のある自分を取り戻せる。
演劇が自分と他者の間に介在してくれる時だけは、本来の自分でいられるような気がして、これまた、企画をたてることに奔走する。自分で段取りをしないと、演劇を介した幸福な時間は実現しないから。
そして時間にあくせくし、心の蓋が硬くなる。とってもわかりやすい繰り返し。
それでも。
今日、こんなことを書き出したのは、この「それでも」というのを書きたいからだ。
それでも。
わたしが時間をかけて関係を修復しようとしていたパートナーが、わたしより更に心を乱していた人が、自分を取り戻し始めている。
人の心が、本当に晴れた時は、声を聞いただけでわかる。その声を聞けて、わたしの心の蓋も一気に緩んだ気がしている。
そして、もうひとつ、「それでも」
同じ50代で、わたしよりちょっと上の、塾生の女性から、朝メールをいただいた。
低迷飛行をしていた自分が、わたしと出会うことでようやく浮上をしてきたと感じるという内容のメール。感謝の気持ちが溢れているメール。
……稽古場で、わたしには彼女の蓋が見える。そして、教えるわたしと教わる彼女の息があった時には、うまく蓋を開けることができる。
蓋が開いた時には、自由な閃きのなんとも素敵な瞬間が訪れて、わたしも、ほかの俳優たちもびっくりすることがある。
自分だって低迷飛行している現在なのに、人生のほとんどを賭けてしまった演劇を介してだからこそ、わたしはそれができる。 人の力になることができる。
この朝は、彼女からのメールで、ぽっと心に火が点った。
この仕事をしていると、お礼の言葉感謝の言葉は、ありがたいことに度々いただく。
慣れていると言えば慣れているし、日常と言えば日常。
でも、今日のは……格別だったのだ。
この週末は、入院している母の調子が悪いと知り、心乱れたものの、自分自身が体調を崩しているので帰れなかった。仕事もなかなか手につかなかった。
そんな時に、自分と同じくらいの年齢の女性から、自分と同じように低迷している女性から、もらった言葉が、きっと響いたに違いない。
わたしは、こうして、心を尽くしていれば、その人たちに救われる。
だから、蓋が取れなかろうが、なんだろうが、自分の現状現状で、心を尽くし続けるほかないのだ。
気をつけるべきは、50代からの「孤独」とのつきあい方。
最近の蓋の構成物は、「孤独への不安」というのがあるのではなかろうかと、感じていた。そこでわたしは、わたしにとっての、孤独とのつきあい方の教科書、メイ・サートンの「独り居の日記」を精密に再読している。彼女の著書を5冊ほどまとめ買いして、これから「孤独」を研究し尽くすつもりだ。
人生の後半を生き始めたメランコリアをうまく脱して、少しでも美しく生きられるように。
つまづくことも停滞することも、もちろんあるだろうが、その折々、自分が分析できていれば不安はない。自分をいつも分析できる余裕、極意をメイは教えてくれる。
それは、魔法が消えそうなので、ここには書かない。
答えはいたってシンプルだ。
今のわたしにとって、混乱を極めているとしか思えない人生というやつも、実は意外とシンプルなものなのかもしれない。
さあ、仕事自体はいろいろ後手にまわってしまったものの、分析を終えて、わたしはまた今週を生きる。