人は何で出来ているか。
人は、何で出来ているか。
今日のわたしの答えは、再構成された記憶と、無駄。
とある食事について、かつてわたしは書いた。
ズッキーニのフリットを、恋人と一緒に作って、恋人と一緒に食べた夜のことを書いた。
もう10年近く前のこと。
美味しい関係と美味しい食事だけでも、記憶に残るものなのに、わたしは書いてしまった。
だから、時を経ても、それは、より記憶に残る。
現実だの経験だのって奴が、書くという時間で再構成されて、自分の都合で色濃くなっているわけだ。
でも、その産物は、人の記憶にも何かしら爪痕を残す。
だって、書いたのは、ネットで誰でも読めるブログって媒体だったからね。
ある友人が、思いがけずそのズッキーニのことをfacebookで書いてくれて、わたしは「記憶」で自分が出来ているのを認識する。
しかも再構成された記憶。
……記憶の集合体であるわたし。
とある昔の仲間の、幼い頃の写真。
もう、現在の日本にない場所で、何かを見据えて立っている。
その見据えている何かは、時間なのか、場所なのか、わからない。
でも、切り取られた写真という記憶は、写真として残ってしまった以上、記憶として彼の構成物のひとつとなる。
その、幼い彼を構成していたElementsたちは、彼の心身に残る。恐らく墓場まで。
ああ。
街を歩けば、記憶ばかり。
あらゆる風景に記憶がしみこんでいる。
これは、実際の経験だけじゃあない。あらゆる芸術的体験の記憶からも。
そう、例えば海を越えた地に立つ時。
わたし、翻訳文学に埋没して、小さい頃からどんなにか旅行してきたから。
ベルリン、モスクワ、ロンドン、ニューヨーク、ロス、ペテルブルグ、そこら辺は、わたしの妄想の中で都市像がはっきり出来ていて、実際その地に立つと、「あ、変わっちゃったのね?」「変わらないなあ」という感慨になる。
文学に接することも、経験。もう、わたしはその地に飛んでいるのだ。
記憶から解き放たれた時、また、新しく出会うことになる。
今日。
わたしの人生にとっちゃあ、何てことない、事務的な、無駄な時間を過ごしながら、
今目の前にある、再構成された記憶にきっとなるであろう現在を生き、
今、この手で触れられるものに、手を伸ばし、甘えて、
甘えるということは、時として逆に距離感を感じることであったりして、
息苦しくなった。
この無駄な時間に、わたしの10年後が秘められている。恐らく。
泣きそうになりながら、涙を止めるちょっとした美学に酔いながら、
しっかりと、一人であることを、噛みしめる。
酒の肴って、いつも極端にふたつ。
愛されている喜び
か、
一人きりだという諦観か。
酒の肴は、いつも、甘いものと辛いものが、交互に欲しくなる。
きっと、そんなものなのだ。