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2012年6月

2012年6月15日 (金)

演出助手という仕事。

わたしは、23歳から30歳まで、蜷川スタジオという集団に所属し、蜷川幸雄演出の舞台に出演する俳優だった。
30歳で、俳優をやめ、演出助手として、蜷川さんの隣で仕事するようになった。
長い、長い演出助手時代は、17年続いた。

わたしがここからいなくなったら……という長年の迷いがようやく、
わたしがここからいなくなっても……に置き換わり、
自分の居場所を離れて、今に至る。
離れて、一人でやりたいのだというわたしの申し出に、蜷川さんは寛大だった。
「そりゃあ、お前だって今のままじゃあ、やってられねえよな。お前にいなくなられたら困るけど、でもまあ、な、やってみろよ。金に困ったら言ってこいよ」と、こんな感じだった。

それから、わたしはようやく自分の名前で仕事をするようになった。

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わたしはこのところ、演出助手を誰にも頼まず、すべて一人でやってきた。
何でもかんでも、一人でやってきた。
自分があまりに演出助手として生きてきた時間が長いために、その仕事に対する要求が強すぎて、誰かに頼むのを避けてきたのもあるし、
ろくなギャラを払えないから躊躇していたのもあるし、
演出助手という仕事が、個人の表現の自由を束縛することがあるとよく知っていて、誰かに頼みたくなかったのかもしれない。

今回、本当に久しぶりに、演出助手をお願いしている。
ふとしたことで知り合った、若い劇作家で自分の劇団の第一回公演を終えたばかりのモスクワカヌさんにお願いしている。
「勉強させてください」という彼女の申し出が、とても自然体だったので、お願いすることにした。
今彼女が、稽古場を、俳優を、立ち向かっているチェーホフの戯曲を、或いはチェーホフという作家を、楽しむ姿が何とも自由で、若々しい自分らしさに満ちていて、わたしは嬉しくなる。
長らくわたしが頑張ってきたみたいに、パーフェクトであろうとすることなどないのだ。
演出家の隣で、目の前で展開する演劇のあれこれに、同じく感動してくれていれば、それでいいのだと思ったりする。

今日の稽古後、ファミレスで打ち合わせしていたら、
「石丸さんの仕事を、わたしに分けてください。石丸さんが、演出に専念できるようにしたいんです」
と、言ってくれたりする。
今まで感じたことのない、胸の疼きを覚える。

演出助手として自分が過ごした長い長い時間を思い、
夜の中に、演出家という仕事の人として、呼吸する。

いい歳した駆け出しの演出家は、この疼きを、作品に変えよう。
まずは、明日もいい稽古を。
わたしの周りに集まってくれた人たちが、明日も演劇を楽しめますように。


2012年6月10日 (日)

香川さんの言葉。

今日の稽古は惨敗。
稽古の途上では必要なことなので、みんなで敗因を共有しようとする。
わたしたちは動き始めたばかり。
停滞せず、進み続けているからこそ、気づく、道のずれ。

===

日々稽古ばかりしているし、
家に帰ったら仕事ばかりしているし、
テレビってものを持ってないし、
テレビでさんざん映像紹介されていたという、
香川さんの、いや、市川中車の襲名披露口上のニュースを見逃してしまった。

香川さんとは、演助でついていた蜷川演出の「桜の園」で出逢った。
ロパーヒン役だった。
桜の園を買ったのは自分なのだと名乗り出る、例のシーン。
農奴あがりのエルモライが、主人の桜の園を買うまで上り詰めた瞬間の、愛と憎。
人間ってものの、えぐさと崇高さを一緒くたに表現する名演だった。
地に足着いた男にしか、
誰より貪欲に生きた男にしか、
生みだせない時間を生きていた。
映画「鬼が来た!」でもそうだった。
蜷川組で出逢ったいい俳優たちの中でも、
わたしは香川照之という俳優が、群を抜いて好きだった。
尊敬していた。

そして。

わたしは、蜷川氏の演出助手という座を去り、
47歳という年齢で、演出家として一人歩きをし始めた。
俳優塾を始め、Theatre Polyphonicという我が集団の第一回公演を企画していた夏、
中川晃教君と香川さんが共演していた芝居をトラムに観にいき、
楽屋で香川さんと再会した。

近況を話す時、わたしにはためらいがあった。
いい歳をして名もなくお金もない。
それでも喘ぐように夢みて、演劇を求め続ける自分に、ちょっとためらいがあった。
久しぶりに会う香川さんに、
「恥ずかしいくらい、すごく遅いスタートですけど、演出家として動き始めたんです。」
というわたしの言葉に、
あのぱーっと開いた大きな笑顔を作って、
「何言ってんの−。遅いスタートなんて、そんなもんないんだよ。始めるのに、そんなこと関係ないよ。素晴らしいねー。素敵だよ。応援してる。頑張って。」
と、あの、おおらかなおおらかな、笑顔で。

あの、ぱかんっと熟れてはじけた果実のような、力のある笑顔を思い出す。

今月、彼は46歳で歌舞伎役者としてのスタートを切った。
それは、どれほどのことなのか、わたしには想像もつかない。
ただ、あの夏、わたしに笑顔でかけてくれた言葉の意味が、ひたすらに胸にしみてくる。

ああ、夜中に目が熱い。

わたしも、進もうと思う。
年齢など関係ない。
わたしが、わたしの人生をどう生きるかだ。
そして、昨日も書いたように、
このわたしの人生が、どれだけの人の人生に痕跡を残していけるか。

どんなことがあっても、
この六月歌舞伎は観にいこう。
そこに、自分が生きている意味を、きっと見いだせると思うから。


2012年6月 9日 (土)

午前二時に思う。わたしの仕事について。

最近、このMONOPHONICへの投稿、さっぱりしていませんでした。
もっぱら、7月公演「三人姉妹」の演出家として書いている「チェーホフ日記」に投稿を続けています。
どうぞこちらもお読みください。

=====

さて。
今日は、稽古休み。
とは言え、いつもの午後の私塾の稽古はしっかりあって。

稽古場への道。
空を見上げると、青と白のコンビネーションは、もう夏の模様。
眩しい陽射しの中、女性たちは日傘をさして集まってくる。

たまたま男子が皆休み。
女性四人の稽古は、汗を山盛りかいての賑やかな稽古。
女だけの「夏の夜の夢」。
男相手のラブシーンより、女性たちがのびのびしていたりして。

稽古中に、なんだか「!!」と思いついて、
稽古後、女性たちに、「今日、アフターはある?」って聞いてみる。
なんと、全員、空いていて!!
稽古場のほど近く、浜田山の小さなイタリアンで、女子会を開催した。

20代、30代、もうすぐ40代、50代、60代と、見事にバラバラな女性五人で、なんとも楽しい時間を過ごした。
美味しい料理を分け合い、硬軟とりまぜた会話を楽しんだ。

俳優私塾POLYPHONICを開いて、もう4年目が始まっている。
そこで出逢った人たち。
わたしの大事な人たち。
この人々の出会いの要が、中心が、自分であるってことを、いつまでも心して、責任持って、愛情たっぷりに、ずっと暮らしたい。
ありがたいことに、愛した分、ちゃんと愛情が帰ってくる。

ありがとう。

ありがとう。

さらには。
「三人姉妹」の座組が、また何とも魅力的な人ばかりで、なんとも純度の高い、志の高い、稽古場が生まれている。
(俳優の紹介はこちらから。)
これもまた、大きな喜び。
意気揚々と船出したばかり。
さあ、舵を取るわたしは、きっちり向こう岸が見えているか?
船に乗ってればどこかに辿り着くだろうって乗組員は誰もいない。
みんなが行く先を見据えている。
たくさんの目で、向こう岸を、見据えている。
そんな仲間が集まった。
私塾の生徒が、船室に籠もろうものなら、わたしは尻をたたいて舳先に立たせるつもりだ。

===

わたしの好きな谷川俊太郎さんの詩に、「午前二時のサイレント映画」ってのがある。
その最後の節。

人はたったひとつの自分の一生を生きることしか出来なくて
あといくつかの他人の人生をひっかいたくらいで終わる
でもそのひっかきかたに自分の一生がかかっているのだ
それがドタバタ喜劇にすぎなかったとしても

午前二時に、こんな言葉たちを思い出す。

雨の音が消えた。

夜は再び息を潜めて、
冷蔵庫と、外付けHDが、唸りを競っている。

人と、人生を愛するのが、
わたしに残されている時間の、仕事。
転んだり迷ったりしても、そこだけは崩すまい。

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