演出助手という仕事。
わたしは、23歳から30歳まで、蜷川スタジオという集団に所属し、蜷川幸雄演出の舞台に出演する俳優だった。
30歳で、俳優をやめ、演出助手として、蜷川さんの隣で仕事するようになった。
長い、長い演出助手時代は、17年続いた。
わたしがここからいなくなったら……という長年の迷いがようやく、
わたしがここからいなくなっても……に置き換わり、
自分の居場所を離れて、今に至る。
離れて、一人でやりたいのだというわたしの申し出に、蜷川さんは寛大だった。
「そりゃあ、お前だって今のままじゃあ、やってられねえよな。お前にいなくなられたら困るけど、でもまあ、な、やってみろよ。金に困ったら言ってこいよ」と、こんな感じだった。
それから、わたしはようやく自分の名前で仕事をするようになった。
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わたしはこのところ、演出助手を誰にも頼まず、すべて一人でやってきた。
何でもかんでも、一人でやってきた。
自分があまりに演出助手として生きてきた時間が長いために、その仕事に対する要求が強すぎて、誰かに頼むのを避けてきたのもあるし、
ろくなギャラを払えないから躊躇していたのもあるし、
演出助手という仕事が、個人の表現の自由を束縛することがあるとよく知っていて、誰かに頼みたくなかったのかもしれない。
今回、本当に久しぶりに、演出助手をお願いしている。
ふとしたことで知り合った、若い劇作家で自分の劇団の第一回公演を終えたばかりのモスクワカヌさんにお願いしている。
「勉強させてください」という彼女の申し出が、とても自然体だったので、お願いすることにした。
今彼女が、稽古場を、俳優を、立ち向かっているチェーホフの戯曲を、或いはチェーホフという作家を、楽しむ姿が何とも自由で、若々しい自分らしさに満ちていて、わたしは嬉しくなる。
長らくわたしが頑張ってきたみたいに、パーフェクトであろうとすることなどないのだ。
演出家の隣で、目の前で展開する演劇のあれこれに、同じく感動してくれていれば、それでいいのだと思ったりする。
今日の稽古後、ファミレスで打ち合わせしていたら、
「石丸さんの仕事を、わたしに分けてください。石丸さんが、演出に専念できるようにしたいんです」
と、言ってくれたりする。
今まで感じたことのない、胸の疼きを覚える。
演出助手として自分が過ごした長い長い時間を思い、
夜の中に、演出家という仕事の人として、呼吸する。
いい歳した駆け出しの演出家は、この疼きを、作品に変えよう。
まずは、明日もいい稽古を。
わたしの周りに集まってくれた人たちが、明日も演劇を楽しめますように。