命の喜ぶ、お客様の感想。
今年の作品は、わたしより世代が上の方からお褒めの言葉を頂くことが多かった。
7月の「三人姉妹」
10月の「EYES」
12月の「ペール・ギュント」と。
私塾のレッスンを受けてくださっている臺史子さんのご主人、臺毅一郎さんが、「ペール・ギュント」に寄せる文章を、Facebookに書いてくださいました。
わたしの描きたかった向こう岸を、お客様がともに眺めてくださっているのは、何よりの喜びです。
何を、どんな風に手渡すか。
そのことに、命賭けです。
受け取ってもらえると、命が喜びます。
ステージについて、考えることがある。うちの人が出た芝居もあったし、うちの人に誘われて見に行った舞台もたくさんあった。都度、いろいろなことを感じ、考えさせられもした。一度味わったが最後、帰ってこられなくなる、芝居や舞台の世界の醍醐味を、垣間見もした。しかし、石丸さち子さんの「ペール・ギュント」を観て、今までになかった興奮を味わった。それは、油絵的に、どんどん重ねて作り込んでいく世界だった。大道具的な意味ではなくて。“語り”というのは、ある意味“墨絵”的な表現手法だと思う。複雑な要素をどんどん排した、ピュアな表現行為だと思う。“伝える” ということに特化するなら、ことさら立体的であったり、動きをともなったり、視覚的な効果を加えなくても、目的は達しうる。“行間を読む”ような、センシティブな表現行為があることは理解できるし、好きな領域だ。しかし、“語り”というのは、録音だと緊張感を維持するのが難儀だし、あるいは、ライブだとセッションになっていくなら面白がれるのだが。NHKがやった「詩のボクシング」ならば、それは分かる。だから、日本独特のものと言えると思う、“墨絵”的な世界なのだと思う。それまでの「ペール・ギュント」は。あまりにも常識的に受けとめていた「ペール・ギュント」の世界観は、グリーグの組曲を聞いてイメージする、あっさりした感じの冒険活劇だった。学校で教わった「ペール・ギュント」は、「朝」であり「アラビアの踊り」であり、「ソルヴェイグの歌」だったから。ペールの人間的な魅力や、ドラマツルギーを語る領域に、届くはずもなかったのだ。翻って、石丸さんの「ペール・ギュント」は。それまでに読んだ、教わった「ペール・ギュント」のストーリーと、何ら変わりはない。ディテールをどうこう言うならともかく、ほとんどアレンジなどなく展開された。なのに、ぐいぐい引き込まれたのだ。登場人物に感情移入するのではなく、傍観者であることをしっかり意識させられながら、強く臨場させられたのだ。それは何だったのか。石丸さんの、「“ペール・ギュント”はこれがテーマなのよ」「これを舞台表現の心棒のひとつにしたいの」「“ペール・ギュント”も視点を変えると違って見える」という提案は分かりやすい。そして、「どうしようもない“ペール・ギュント”だって、母親が産んだのよ、母親は愛していたのよ」「最低の“ペール・ギュント”だって、待つ女がいたのよ」という、切ない愛の世界のアピールは、濃いほどに切なさが増す。石丸さんは、“語り”のように、受けとめる側のイマジネーションのコントロールをしよう、というのではなく、受け手がげっぷが出るくらいにぶつけまくり、満艦飾の世界を見せつける。そうして、「しっかり受けとめろよ」というメッセージとともに、“ゆるぎない愛”というテーマを、濃く表現したかったのだと思う。油絵的に、どんどん重ねて作り込んでいって。はっきり言って、石丸さんはオペラを演出した方が、のびのび表現できるだろうし、楽なのだと思う。でも、楽な方を選ばないのも石丸さんという、自己矛盾なのだろうな。だから、しっかり応援したいと、つくづく感じた。