Hotel Existenceから。
舞台を創っている時は、生きている。
終わったとたんに、生きている気がしなくなる、これは何だろう?
ポール・オースターの「ブルックリン・フォリーズ」という昨年ようやく翻訳の出た小説(オースター2005年の作品)に、Hotel Existenceと呼ばれるホテルが出てくる。
それはホテルの固有名称ではなくって。
自分が「生きている」ということを、深いところで実感させてくれるような。
「存在している」ことは辛いことだという大現実をひっくり返してくれるような。
自分の「存在する」煩わしさを忘れさせてくれるような。
自分の存在と現実の関わりを度外視して、世界の美しさと触れあえるような。
これらは、オースターが書いたことではなく、わたしが行間から勝手に読み取ったとものだが、傷ついた犬みたいな登場人物たちが、Hotel Existenceと呼ぶ、ほぼ機能していない宿泊施設に泊まっているシーンは、読むのにずいぶん時間がかかった。
読み終えるのが怖くて、ゆっくり、ゆるりゆるりと、呑み込んでいった。
「こういうシーンに出会いたかった」という幸福の瞬間が、時折読書する時、訪れる。
大体、突然、やってくる。
そういう時、わたしは一度本を閉じ、今から出会おうとしているシーンの予感に鼓動を早くしてしまうので、鎮めて鎮めて、息を整え、出会いにいく。本を開く。
Hotel Existenceのシーンを読みながら、わたしも彼らと同じ空気を吸っていた。
読書には、終わりが来る。
それ以来、何冊かの本を読んだが、まだHotel Existenceにわたしは泊まったままだ。
最近、大きな仕事が決まって、まあ、お金にはならないから仕事と呼ぶのは控えても、大きなチャンス大きな冒険が、先に待っている。
ひどくうきうきしていていいはずだ。
でも、わたしはまだHotel Existenceにいて、そこに留まる自分を、外から眺めているような気分だ。
わたしが、存在するわたし自身を、眺める。
50代の書くことではないかな。
いや、辿り着いてみると、こんなものだ。
まだ、存在することが覚束ない。
わたしのHotel Existenceは、舞台にあるかな?
本当にあるかな?
誰かのHotel Existenceを、わたしは作れるのかな?
ごくごく当たり前に、てきぱきと仕事をこなす日々を送りながら、
精神は、Hotel Existenceの中に留まっている。
この不可思議な日々。
舞台を休みなくやり続けていると、
周りのみんなに、早く死ぬよって驚かされるけれど、
舞台がなくっても、休んではいない。
稽古場も劇場も近くにない時期が、いちばん怖い。
ただただ次を夢見て、そこが自分の、観客の、Hotel Existenceであれと、願う。
わたしの人生は、すでにボタンを掛け違えてしまっている。
ペールみたいに、溶かされる恐怖に出会わないように、
ただただ、おのれ自らと向き合う。
掛け違えたボタン、失敗の人生でも、Hotel Existenceに辿り着くことはできる。
他人の評価ではない。
自分の人生だ。