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2013年9月

2013年9月19日 (木)

MITFから、お祝いの言葉が届いていました。

2013年9月 9日 (月)

筆舌に尽くしがたいこと。感興、断片。

昨夜、d-倉庫にて、モスクワカヌ作伊藤靖浩音楽、ミュージカル「マドモアゼル・ギロティーヌ」を観た。
観た、と言っても、劇場入りして初日を立ち上げるまで、音環境を創るお手伝いに行っているので、初見ではない。でも初日とは全く違う、静かなる感動と興奮を覚えた2時間半だった。
ドラマと選ばれた言葉自体は、憧れで紡がれた少女小説のようだとわたしは感じたのだが、(これは否定ではなく、ワカヌ作品の魅力はそこにあると感じている。)それを伊藤靖浩の音楽が透明な死生観にまで高めてしまっているのは、当初から感じていたこと。昨日の感動は、その音楽の表現のしかた、呈示のしかたにある。
このことについて書こうとして、わたしは昨夜から敗北し続けている。
筆舌に尽くしがたいという言葉があるけれど、その意味を一晩で実感した。
終演後彼にその感動を伝えるわたしの言葉は空しく、こうして書き言葉にしようとすればするほどまた空しくて消し。
わたしの筆と舌は、彼の音楽彼の表現を、まだ表せない。
今日の午後、もう一つ本番を残しているからか?
芸術の受け取り方は人それぞれで、誰がどう感じてもかまわない。だから書いていいはずだのだけれど、言葉にするのが惜しい。

パスカルの言葉を借りよう。
「情念は過度でなければ美しくありえない。人は愛しすぎないときには十分に愛していないのだ。」
作曲家としては、楽理と深い情感の間を激しく行き来し、表現者としては冷静冷徹な彼。
今回は、打ち込みのオーケストレーションにピアノの生演奏を重ねるという方法のために、クリックと返しの流れるヘッドフォンで、劇場内の生音から自らを閉ざしている。
そのことが、魔術的なトランス状態を呼び、初日には、すべてを掌握しコントロールしようとしていた彼の音楽、彼の精神、彼の肉体が、昨日は違うところにあった。
静かで。音楽に直向きで。舞台から遠い孤独の中にあるようにも見え。また、すべてが彼の内部の表出のようにも見え。
表現者の安易なナルシズムを嫌う彼が、新しい場所に立っている。
過度な情念、深すぎる愛情は、彼の体の中に巨大なエモーションを生んでいるのに、体に表れる表現は無駄がなく美しい。
演劇を凌駕してしまいそうな彼の身体性を、カリオストロ役の山田宏平さんの存在がしっかりと受け止めていてくれた。

スペインで「ゲルニカ」を観た時のことを思い出した。
短期間で描きあげた「戦争」。絵の中には、短い時間と長い長い時間が封じ込められていて、それは、ピカソと世界の歴史とも言い換えられるのだけれど、それを目の辺りにした時の感興を思い出した。
でも、このことは改めて書こう。
筆舌に尽くしがたいものを語りたくなるのは、人の常。
だからこその、芸術の喜び、煩悶。
演劇の神様より、悪魔に身を売ってしまったが如き彼の演奏も、今日の午後で最後だ。
色んなものがブラッシュアップされる再演があるとしても、今回の彼はきっともう現れない。
あらゆる状況・現在を、過度の情念と過ぎた愛で乗りきろうとした彼の時間が呼んだ、横溢と静謐だった気がする。

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