今、新大橋のChatという店にいる。
ベニサンに稽古通いしたことのある人なら思い当たる、稽古場の隣の喫茶店だ。
わたしは24歳からベニサンの5階にあった蜷川スタジオに通っていたから、
もうどれだけこの店に入ったことだろう。
ベニサンがマンションに変わってしまった今も、この店はある。
所用で通りがかって、吸い込まれるように入ってしまった。
時計の針がとんでもないスピードで逆回りを始める。
わたしという容器は刻一刻老いに向かって、歩みを止めることは決してないのに、
精神だけが、過去に足を伸ばす。
危険だ。
NYから帰ってすぐに、谷賢一翻訳・演出「最後の精神分析—フロイトVSルイス—」を日暮里d-倉庫に観に行った。
上演成果に関しては、終演後演出家と直接語りあったので、感想めいたことは書かない。
ただ、今この作品を観るということが運命だったか?というほどに、強いインパクトをわたしは受け、ぐらぐらと揺さぶられて、今がある。考えずにはいられない、書かずにはいられない、今だ。
この戯曲をわたしが個人的にフロイト側から読むと、いくつかの要素、エレメンツがある。
・フロイトがユダヤ人であるということ
・第一次大戦が終結した後の世界の大きな流れに(或いは極所的な流れに)人々がまだ訳を知らずに身を任せている間に、第二次大戦が芽吹いてきた、まさにその時代であること
・神とは何か、イエス・キリストが何者であるかという問題が、永遠の謎であること。(世界を瞬時に崩壊できるだけの知力を得た現代人でさえ、答えは用意できない。)
・フロイトが老人であること
・フロイトがすでに癌に冒され(癌治療が現代とは比較にならないくらい進んでいなかった時代に)、手術の失敗により口内が冒され、不出来な人工口蓋をつけて暮らしていたこと
・フロイトが思考を妨げる麻薬による痛み止めを排し、痛みと共棲していたこと
・そこに、若く純粋な文学者が、神の存在について対話しにやってきたということ
木場勝己さん演じるフロイトは、幕開きから、忌々しそうにゆっくり歩く。ヒットラーからウィーンを追われ、自分の家族を恐怖に陥れた現在への忌々しさか、崩れゆく自分の肉体への忌々しさか、刹那の痛みの忌々しさか、約束に遅刻してくる客人への忌々しさか。
ルイスを迎え入れて会話が始まってすぐに、フロイトは指を人前で無様に口内に突っ込んで顔を歪める。
彼の崩れた硬口蓋から軟口蓋を覆っているアタッチメントは、実に不出来なものだということが、痛みが常にそこに棲息していることが、容易に見てとれる。
ここから、終演までわたしの戦慄は止まらなかった。
わたしの聞き間違いでなければ、純粋なキリスト教信者であるルイスに興味を持ち呼んだのは、フロイトの方だ。
なぜ彼はこの純粋極まりない論客を必要としたのだろう?
発語するという行為は、どこまでも口蓋を刺激する行為だ。
痛みは日常だったかもしれないが、現に論争中に人工口蓋をルイスの手を煩わせてまで外している。
なぜ彼は「神の存在」についてといった答えのあるわけもない論議に、熱くなり言葉を弄するのか?
第二次大戦の開戦は、知の巨人ではない、人間フロイトを、どう揺さぶっていたのか?
彼は自分の老いをどう受け止めていたのか?
老いるということは、多分に、排他的になることだと、わたしは思っている。
彼のように理性的に科学的に、人間を分析してきた人なら、自らの脳内だけで論議は全うできるだろう。自らの宇宙に答えは用意されていて、他人の反駁を必要としないはずだ。今まさに戦争が始まらんとする時に、なぜ彼は「神」についてなど論じようとしたのか?
……この文章は問いばかりになる。
老いて、避けられないものばかりが残る。この世の凄惨、人間の愚かさ、我が身の痛み、この世を去るという絶対……。すべて回避不可の現実を前に、人が何を考えるか。
どこをどれだけ彷徨い、何を手放し、最後まで何を手放すまいとするのか。
わたしの興味はそこにある。
木場さん演じるフロイトから、わたしは、人間を理性で知り尽くそうとした巨人の頭の中を、妄想する。想像を超えているとわかっているのに。
それは、これからわたしが通る道でもあるからだ。
動かしようのない孤独。誰もが、期せずして若く死ぬことなく、生きながらえてしまったら、必ず通る道。
この命が終わることを前提に生きる、生きてしまった後の、孤独。
自分の人生でなしたことを、すべて忘れ、0に化する時を迎えるための孤独。
自分の人生が終わっても、続いていくはずの世界を遠見してしまう孤独。
こんな巨人に、自分の老い先を見ようとしてしまった理由が、わたしにとっての、この作品の魅力であり、出会いだった。
恐らく、この知の巨人は、感情の表出の仕方も、表情筋の作りも、一般や標準を受け入れない、特殊なものだったに違いない。彼の写真を見て、わたしは想像する。
しかし、彼はルイスを呼び、ルイスと語り、しかも「神」を巡って熱くなった。開戦時に。痛みを抱えて。
明らかに、他者に手を伸ばしていた。
そして、このわたしですら、その対論に入っていきたいと思わせる、真っ当で優しい人間らしさを見せた。
その奥に隠された、孤独。
来客中避けていた音楽を、一人になって聞く姿。
音楽を味わうには粗末過ぎる再生装置から流れる音が、彼の宇宙の中で、時を癒す音楽に変わっていく様が表情に見てとれる。わたしも、彼の宇宙に聞こえるオーケストラの喜びを、ともに聞く。
木場勝己さんという、人間的な、あまりにも人間的に魅力的な俳優が演じることによって、フロイトがわたしのところに降りてきた。ルイスとともに、わたしは、フロイトという先達の前に自分を晒す。
こうして生きている意味について。
この喜びと苦悩の意味について。
かつて自分の若き人生時間のほとんどを費やした、稽古場のあった場所で。
自分が50代にあることを思う。
激しい孤独と闘いながら、わたしも「神」について、「救い」について、考える。
どれだけ、こんな思考の時間を過ごせばよいのか、少し気が遠くなる思いで。
考えは一切まとまらない。
いくら書いても、無駄に消えていくだろう、言葉たち。
意味を与えられない時間が過ぎるばかり。
だから、また作品を創ろうと考え始める。