人生は罠に満ちている。
歳を取る、ということは、少しずつその事実に気づいていくということだと思うことさえある。
母は、読書をしない人だった。
読書をする余裕など人生になかったはずだ。
だから、わたしがおなかに生まれてから、胎教のために子どものための世界文学全集を買いそろえて、少しずつ読んだらしい。そして、それはちょっと退屈なことだったらしい。
わたしは、言葉を覚えるのが早く、かなり早い時期にそれを読み切って、次をねだったらしい。
………でも、この母の弁はわたしの記憶と少しずれていて、わたしは全部を読んではいない。読み始めて乗れなかったものはスキップして、次の作品へ、次の作品へと読んでいったはずだ。
これがわたしの読書との出会いだった。
その文学全集がどんなものだったか知りたくて調べ、講談社が1958年から刊行したものではないかと推測したが、確かに入っていたと記憶する、井上靖の「しろばんば」が入っていない。「しろばんば」がずっと気になりながら、なんだか題名が怖くってずっと読まなかった記憶がある。
「小公子」「小公女」「クオレ」「ガリバー旅行記」「イワンの馬鹿」「愛の妖精」「家なき子」「飛ぶ教室」「ドリトル先生航海記」……思いつく題名は枚挙にいとまがなくって、それもこれも、文学全集に入っていたものか、その後ねだったものか、覚えがない。
それから、歳を取るにつれて、読書をするという遊びは、変容し続けていった。
小学、中学、高校、大学、卒業後……成長につれ、変わらない訳がない。
初潮をを迎える前と後、セックスを知る前と後、それを体験する前と後、人を愛することを知る前と後、人を傷つけることを知る前と後、あらゆる時代を覆って我が身を支配し続ける、「わたしは誰?」という問いと「生きるって何?」という問いに対する、我が答えの変遷。
……読書傾向、読書から得る感慨、読書する時間の脳の状態、読書する時の自意識の居所、そんなこんなが、自分の来し方の時期時期で、全く違う。
このところの自分がどうだったかと言うと、読書の喜びをすっかり忘れて、それに代わる喜びを、演出する時間に見いだしていた。
戯曲を、俳優という他者の心と体を使って読み解く作業に、読書以上の喜びを感じて過ごしてきた。
わたしの日常から、どんどん読書が遠ざかっていた。
それでも普通の人よりは読んでいたのかもしれないけれど、人生で欠くべからざる喜びと時間であった時代は終わったかとも思えていた。
そして。
わたしが久しぶりにこうして読書のことなど書いているのは、新たに、また、小説の中に身を投じる喜び痛みを、思い出してしまったからだ。
演出をしてる時とは全く違う位相で、煩悶する喜びを覚えられる場所。
アリス・マンローの短篇集に、新しい喜びを見いだした。
人生は罠に満ちている。
それなのに、好きこのんで、その中に身を投じて、自分を再構築する時間。
たった2篇を読んだだけで、すぐにどんどん読んではいけないように感じてしまい、わざわざこうして雑文を書き、時を紛らわせている。
足首に重い枷をはめられたような、重い軛をはめられて渾身で歩いているような、妙な快感がある。
こうしている間にも、稽古に出向く時間は近づいていて、わたしはわたしの日常に戻るのだけれど、帰ってくると秘密の遊び場が待っている。
人生は、秘密にして墓場に持っていかなければならないことばかりだ。
だから、秘密を痛みの小道具にするだけでは生きてはいけない。
それは、何とか、衰える一方の知力で、味わい尽くして楽しむべきなのだ。