« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »

2013年11月

2013年11月20日 (水)

ゆりかごを揺すって。

激しい一日を終えて、と言うか、自分から激しい稽古の一日を生みだして、眠りにつく時。
わたしと出会ったばかりに、眠れない、或いは眠らない夜を過ごしている俳優たちのことを思う。
演出家としては「休むな!」と言いながら、「ちゃんと休まなきゃ!」と言いたい母親みたいなわたしも存在していて、心配になったりする。

ジャック・プレヴェールの詩を思い出して、少し気が楽になる。
不安なわたしごと、肩の力が抜けて、枕と布団にうずもれる。

「ひとりで眠る者は、その揺りかごを揺すられているのだ、その者の愛している、愛した、愛するであろう者たちすべてによって。」

過去、現在、未来をそっとつなぐ、なんて優しい言葉だろう。
翻訳は、ジブリの高畑勲さん。

そして。
朝になると、今日も、「休むな!」と俳優たちに告げるわたしが、しっかりと目覚めている。
愛情は、時として、伝わる。
愛情は、時として、伝わらない。
それにがっかりせずに、自分なりに愛し続ける。
経験則だ。

2013年11月19日 (火)

朝の思索から逃れて。

早起きして延々事務作業をして。
このところの揺れる気持ち、説明しがたい心情を、なんとか文章にしようと書いていた長いポストが、残念ながら、Airのフリーズで消えてしまう。
そういうものだ。
書くということを通しての、思索の時間だけが流れた。
生きてる限り延々と続く、例の思索。

そんな時に、真っ白でぬくぬくの風が、わたしのベッドに寝てくれていることが、ひどく精神をゆるめてくれる。
歴代の恋人を振り返っても、なかなかない癒しだ。
わたしの口の悪い(正しい)友人たちは、「いい歳をした独り身の女が猫に癒やしを求めるなど、あまりに定石過ぎて恥ずかしい」とでも言うだろうが、いやいや、そうでもないよと、わたしは軽く反論しておこう。

演出家は(表現者は)、自分の現在を切り売りする仕事だ。
そのために、自分の現在を、平らかに見ることが、最近ようやくできるようになった。(昔は、自分の現在に納得できず、苛立ち、よく暴れていた。)
自分の生まれ、あらゆる出会い、どんな時代に生きて、何を食べてきたか。何歳で何に出会い、何歳で何を喪失したか。
動かしようもごまかしようもない、自分の過去と、現在。

もちろん、この歳になっても、未来のために今を生きることはやめない。
夢は死ぬまで見続ける。
でも、自分がこの現在に正しく責任を持ち、自分自身でこの現在を正しく評価してやることが、表現者としての自分をさらに開き、磨いてくれるのではないかと思うのだ。

さあ、今日も稽古場に向かう。
わたしを必要とする俳優たちが待っている。

2013年11月10日 (日)

夢見つつ。

負傷してはおりますが、
安静!ではありますが、
日々の闘いは静かに続いておりまして。

今日、見事に一戦敗れました。
夢は叶えてもらうものではなく、自ら叶えるしかないのだと、
また身をもって知りました。

負傷してはおりますが、
安静!ではありますが、
日々の闘いはさらに続きます。

かつて日本で皆が唱えた、
撃ちてしやまん、とは全く違う、
生きているのを楽しむ闘いを、
また夢を見ながら、続けます。

2013年11月 3日 (日)

小説のように。

人生は罠に満ちている。
歳を取る、ということは、少しずつその事実に気づいていくということだと思うことさえある。

母は、読書をしない人だった。
読書をする余裕など人生になかったはずだ。
だから、わたしがおなかに生まれてから、胎教のために子どものための世界文学全集を買いそろえて、少しずつ読んだらしい。そして、それはちょっと退屈なことだったらしい。
わたしは、言葉を覚えるのが早く、かなり早い時期にそれを読み切って、次をねだったらしい。
………でも、この母の弁はわたしの記憶と少しずれていて、わたしは全部を読んではいない。読み始めて乗れなかったものはスキップして、次の作品へ、次の作品へと読んでいったはずだ。

これがわたしの読書との出会いだった。
その文学全集がどんなものだったか知りたくて調べ、講談社が1958年から刊行したものではないかと推測したが、確かに入っていたと記憶する、井上靖の「しろばんば」が入っていない。「しろばんば」がずっと気になりながら、なんだか題名が怖くってずっと読まなかった記憶がある。
「小公子」「小公女」「クオレ」「ガリバー旅行記」「イワンの馬鹿」「愛の妖精」「家なき子」「飛ぶ教室」「ドリトル先生航海記」……思いつく題名は枚挙にいとまがなくって、それもこれも、文学全集に入っていたものか、その後ねだったものか、覚えがない。

それから、歳を取るにつれて、読書をするという遊びは、変容し続けていった。
小学、中学、高校、大学、卒業後……成長につれ、変わらない訳がない。
初潮をを迎える前と後、セックスを知る前と後、それを体験する前と後、人を愛することを知る前と後、人を傷つけることを知る前と後、あらゆる時代を覆って我が身を支配し続ける、「わたしは誰?」という問いと「生きるって何?」という問いに対する、我が答えの変遷。
……読書傾向、読書から得る感慨、読書する時間の脳の状態、読書する時の自意識の居所、そんなこんなが、自分の来し方の時期時期で、全く違う。

このところの自分がどうだったかと言うと、読書の喜びをすっかり忘れて、それに代わる喜びを、演出する時間に見いだしていた。
戯曲を、俳優という他者の心と体を使って読み解く作業に、読書以上の喜びを感じて過ごしてきた。
わたしの日常から、どんどん読書が遠ざかっていた。
それでも普通の人よりは読んでいたのかもしれないけれど、人生で欠くべからざる喜びと時間であった時代は終わったかとも思えていた。

そして。
わたしが久しぶりにこうして読書のことなど書いているのは、新たに、また、小説の中に身を投じる喜び痛みを、思い出してしまったからだ。
演出をしてる時とは全く違う位相で、煩悶する喜びを覚えられる場所。

アリス・マンローの短篇集に、新しい喜びを見いだした。

人生は罠に満ちている。

それなのに、好きこのんで、その中に身を投じて、自分を再構築する時間。

たった2篇を読んだだけで、すぐにどんどん読んではいけないように感じてしまい、わざわざこうして雑文を書き、時を紛らわせている。
足首に重い枷をはめられたような、重い軛をはめられて渾身で歩いているような、妙な快感がある。

こうしている間にも、稽古に出向く時間は近づいていて、わたしはわたしの日常に戻るのだけれど、帰ってくると秘密の遊び場が待っている。

人生は、秘密にして墓場に持っていかなければならないことばかりだ。
だから、秘密を痛みの小道具にするだけでは生きてはいけない。
それは、何とか、衰える一方の知力で、味わい尽くして楽しむべきなのだ。

« 2013年10月 | トップページ | 2013年12月 »