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2015年7月18日 (土)

「トロイラスとクレシダ」の後に。

このところ男性俳優との密着仕事が多い中、
女性について、いろいろ考える一日になった。
世田谷パブリックにて、鵜山さん演出「トロイラスとクレシダ」。
今年三本目の鵜山作品観劇。
戦争とセックスで読み解く「トロイラスとクレシダ」、ほぼ男性ばかりで語られる世界の中に、投げ出されるように描かれたクレシダ。
(ギリシャ悲劇や他戯曲ではそれぞれが主役となり深々と描かれる、ヘレネ、アンドロマケ、カッサンドラは、わずかにしか登場しない、とても珍しい視点のシェイクスピア作品。)
クレシダを演じるソニン嬢が、瞠目の素晴らしさ。
タイトルロールなのに、登場シーンはさほど多くなく、人間としてあまり書き込まれていない、クレシダという役。
それが、男目線で必要な役にはおさまらず、しっかりと一人の女性として造形されている。
一人の女性の愛情、エゴがちゃんとそこにあって、運命と対峙した時の揺らぎや諦観、活路の選択が、少ない情報なのに、ぐいぐい伝わる。
一を見て、十を知る感じ。
特筆すべきなのは、一人の女性を演じることで、女性全体を思わせ、
一人の女性の運命を演じることで、歴史に翻弄されてきた女性全体を思わせてくれること。
運命の分岐点にあって、クレシダとへクターの選択は対照的。
「おれの運命を青空のように澄みわたらせるものはおれの名誉なのだ。いのちを愛さぬものはいない、が、愛すべき人間はいのち以上に名誉を愛するのだ。」
……これは戦争に赴くへクターの台詞。
「トロイラス、さようなら。片方の目はあなたを見ている、でももう片方の目は心といっしょに別のほうを見ている。
ああ、女って情けないものね、私にもわかったわ、
女の欠点は目の間違いが心を導くってことだわ。間違いが導けば道をあやまるほかない、心が目に従えば悪にあやかるほかない。」
……これは、トロイラスへの思いを秘めたまま、生き抜くために必要なダイアミディーズになびいていく時のクレシダの台詞。
男のエゴと女のエゴが、時と場所を超えて、個性や例外など超えた大胆さで現出。
蜷川組でご一緒した文学座の男優たちも、適材適所で鮮やか。
ソニン嬢は、一切の感傷なく、生きる瞬間をつなげてみせた。
戦争がいかにちっぽけなエゴの生み出すものであるか、あぶり出しさえしてくれた。
本来なら、メネラオス、ヘレネ、パリスの方が描きやすい題材。
それが、トロイラスとクレシダで、こんなに伝わるとは!
といった観劇の後。
6月に執筆のため通い詰めたカフェに寄って、食事。
閉店間際で客はわたしだけ。
店主の女性と、期せずして話し込むことになる。
今まで、店主と常連客の枠を超えて話したことなどなかったのに。
わたしと、全く、全く違う、とっても烈しい波風を超えてきた人生に、
驚いたり、共感したり。
三つ違い。同世代。
みんなみんな、取り返しのつかない、一度きりの人生の中で、
果てのない問いかけを自らに向けながら暮らしていく。
トロイ戦争に翻弄されたクレシダと同じくらい、
彼女の人生がわたしに迫ってきて、
自分の人生を思ったり、明日をまた暮らしていく力をもらったり。
何気ない一日に、精神の旅の神秘がひそんでいる。

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