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2016年11月 4日 (金)

▶憤怒の橋と、この写真をめぐる嘘と本当。   そして、『この泡の消えるまで』

==憤怒の橋と、この写真をめぐる嘘と本当。
  そして、『この泡の消えるまで』について。==

晴天。
白猫は部屋にまぎれこんだカメムシに夢中。
臭いが気になるのか、接近戦が続かず、苦戦している。
わたしは心の中を断捨離中。
エネルギー源は、憤り。
目指すはその向こうになみなみと溢れている創作欲求。
まずは、あの愛情の泉に向けて、
憤怒の橋を、もう二度と渡らねえぞ!と、かち割りながら歩く。
気をつけないと足を踏み外すけど、
慎重に、というよりは、足取り軽く進む。

先日、ホームに入って一ヶ月になる母に会いにいった。
2005年から在宅介護を続けてくれた父の、苦悩の選択。
父は心底寂しそうで罪悪感さえ抱えているが、
顔色はよく、体調は上向きに見えた。
本当に、共倒れになるところだったのだ。

ホームで母は、誰ともしゃべらないらしい。
昼間は車椅子に乗って共有スペースで過ごすのだが、
一人でずっと黙って時を過ごしているらしい。
あの、ひまわりみたいに元気で、明るくっておひとよしで、誰からも好かれた母が。

わたしが行った時は、もつれる舌を頑張って使って、
一生懸命おしゃべりをしてくれた。
そして、歌ってくれた。
不思議なことに、しゃべる時にはもつれる舌が歌う時には上手に動く。とってもクリアな母音。音程もしっかりしてる。
声帯は、いっぱいしゃべって歌っていた頃をまだまだ覚えているのだ。
この間は「我は海の子」がお気に入りで何度も歌ってくれた。
ホームの童謡歌集を出してきて、何曲か一緒に歌った。

わたしが行ったことは、より母の孤独を大きくするのは確実だと気が滅入り、それを父に話すと、短期記憶がダメになっているから、わたしが行ったことも明日は忘れているかもしれない、と父は言った。

一生を生ききって、傍目からはただ生きているだけに見えるかもしれない人のくたびれた体の中に、魂は、脈々と生きている。

この写真には、嘘と本当がいっぱい入っている。
わたしは心中で泣きまくっているし、
母は頑張って笑っている。ほら、嘘だ。
でも、母と娘で思いっきり明るく笑ってきた年月が呼んできた現在だから、全部、本当。
「時」は、正直者で、嘘をつけない。

わたしはそんな母の毎日に寄り添うことをしていない。
不肖の娘に出来ることは、たくさんの魂を真摯に描くことのみ。

11月11日に初日の「この泡の消えるまで」は、
まさにそんな魂を、明るくパワフルに描く作品です。
ここ、強調。♡♡明るく、パワフルに♡♡描く。
長い文章の最後に宣伝を書いても誰も読まないね。
でも、書いておこう。

==========

ドイツのホテルで療養中のチェーホフを、深夜、発作が襲った。
かかりつけの医者がやってきて、カンフル注射と酸素ボンベでの吸入。
脈はどんどん弱くなる。
さらに新しい酸素ボンベを取り寄せようとした医者に、
チェーホフは言った。
「それが届く前に、僕は死んでいますよ」
医者は、ボンベの代わりに、一本のシャンパンを注文した……。
人生の最後を飾る、一杯のシャンパンのグラス。
その向こうにチェーホフは何を見、何を聞いたのか?

「この泡の消えるまで」
作・演出 石丸さち子 作曲 伊藤靖浩
出演 金すんら

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