2010年5月18日 (火)

「クロッシング」の後に。

昨日のオーディションの後、どうも気分がすぐれなかった。
それはやはり、短い稽古時間しかないのに重いテーマの戯曲を選んだことから来ていた気がする。
自分がこの人生で経験したことのない悲劇、絶対遭遇したくない惨劇、そういうものを安易に扱うことを嫌う自分が、自分を責めていた気がする。
あえて選んだことなのに、やはり後味が悪かった。
限られた稽古時間の中で、自分がやれることをかいかぶっていたような気がする。

そんな時に、誘われるように「クロッシング」を見た。
打ち合わせと打ち合わせの間に3時間隙間があって、ぴったりはまるのが偶然「クロッシング」だったのだ。
見終わって、誰かに導かれてこれを見たような気がした。
エミール・クリストリッツァの「アンダーグラウンド」以来の衝撃だった。

脱北の話。

主演のチャ・インピョ、子役のシン・ミョンチョルをはじめ、俳優たちの演技が素晴らしい。
ドキュメンタリかと思わせるリアリティー。
深い愛情、深い悲しみ。
刻まれた苦悩の皺が、虚構だということを忘れさせる。

壮絶な、現実。
すぐそこにある悲劇。
今まさに痛んでいる人たち。

シェイクスピアの歴史劇を演じることだって、実は変わらない。
薔薇戦争の悲劇は、遠いようでいて、今も繰り返されている。

でも、今、そこにある悲劇を演じることは、
俳優にとって、どれほどか負荷が大きい。

主演のチャ・インピョは、クランクイン前、ロケハンに参加する時のことをこう書いている。

私はこの映画で脱北者の役を任せられた。 しかし、私が脱北者について知っていることは、数日前にインターネットで読んだある脱北者が書いた手記と、何冊かの本、そして脱北者のスタッフと交わした話くらいだ。 あと2ヶ月も経たないうちに撮影が始まるというのに、私が脱北者を演じるには何かが決定的に不足していた。  空腹、絶望、切迫感、生き別れ、死... この世で人間が経験するであろうすべての苦痛を、一挙に網羅したかのような彼らの辛い心情を、どう表現したらいいのか...それは頭で理解するものではなく、心臓で感じなければいけないものだ。しかし、到底できそうになかった。

こうしてスタートした俳優の仕事に、わたしは今日、打ちのめされた。
これを立ち上げた監督やプロデューサーにも、
スタッフひとりひとりに、
この映画にまつわるすべてに、打ちのめされた。

そして、断片的な報道でしかしらなかった北朝鮮の実際。
あってはならない、現実。

現実はあまりに不公平で、理不尽な悲しみに満ちている。
そんな中にいて、そこにある魂の美しさ、人を愛する気持ちの崇高さは、如何ばかりか。


迷うことなく、わたしは仕事をしなければ。
自分の仕事を再確認する。
小さなことに落ち込んだり傷ついたりする暇があれば、
あまり残っていない自分の時間で、できることを考えて暮らそう。
できることがあるはずだ。
そばにいる俳優たちと。演出するわたしとで。
いつまでも逃げていないで、本を書く必要もある。

オーディションをやっていて自分に嫌気がさしたのは、
人に嫌われることを、自分自身が避けて通ろうとしているのに気がついたからってこともある。
……わたしが人を愛するのは自由だ。
……でも、愛されることは期待しないこと。

わたしが世界を愛するのは自由だ。
でも、その見返りを期待しないこと。
愛し尽くすだけで充分と、開き直ること。
そして、そこに、全力を傾けること。
命がけであること。

2009年12月23日 (水)

ぐらり。

わたしの入浴は、読書が定番だった。
どの一冊を持ち込むか、本棚の前であれこれ悩むところから、あったまる時間は始まっている。
それが、このところ、iPhoneの防水ケースを入手したものだから、映画を見るという選択肢が増えた。
本を読むに必要な、頁をめくるといった動作が、一切必要ない。
これはかなりいい。

試みにお風呂場の電気を消してみた。
ほぼ真っ暗な中でぬるめのお湯につかる。
ちょっと前リラクゼーションって言葉が流行った時に聞いた、羊水体験みたいだ。
iPhoneの小さな画面の光が、湯面に反映して、ゆらゆらするのも心地いい。
湯と肌の触れあう滑らかな音が聞こえる。

今夜選んだ映画は、「ククーシュカ ラップランドの妖精」
題名の妖精ってところにだまされると痛い目に遭う。
邦題はいつも信用ならない。
以下、あらすじをとりあえず引用。

フィンランド最北の地ラップランドで、ロシア軍とドイツ軍、 そして自国の領土回復のためドイツに同盟していたフィンランド軍が戦っていた頃のこと。平和主義者である フィンランド軍の狙撃兵ヴェイッコは、戦争への非協力的態度に怒った戦友らによって罰としてドイツの軍服を 着せられた上、鎖で大岩に繋がれたまま置き去りにされてしまう。だが数日間の格闘の末、彼はなんとか身をふ りほどき、足かせをはめたまま安全な場所を求めて歩き出した。足かせと格闘中のヴェイッコを見ていた人物がいた。 秘密警察に逮捕されたロシア軍大尉イワンだ。軍法会議へと連行される途中、イワンは味方の誤爆によって重傷を負う。 その近くを通りかかったのが、ラップランドに暮らす女アンニだ。彼女は重傷のイワンを自分の小屋まで運び、看病してやることにする。 一方、足かせをはずす道具を探し歩いていたヴェイッコもアンニの家に行き当たる。ヴェイッコは、敵軍に捕まることを避けるため、 当面アンニの家に留まることにする。自分の小屋にかくまってやることにした彼女にとって2人は敵ではなく、ただの男たち。 ところが、それぞれが互いにフィンランド語、ロシア語、サーミ語しか理解することができなかった。 こうして、言葉のコミュニケーションはまったくとれないまま、3人のユーモラスでちょっと不思議な暮らしが始まった。 敵同士として対峙する男たちも人なつこいアンニのおかげで心をほぐされていく。だがある日のこと、事件が起こる……。

全く言葉がわからない三者のディスコミュニケーション。
久しぶりの男に性欲がほとばしって止まらない女、二人の男。
「あらすじ」にある「心がほぐされていく」なんて牧歌的なことは一切展開しない。
ただただ、ひたすらに、人間。
それだけでも確かに、わたし好みの苦さと哀しさ可笑しさの同居した映画だったのだけれど、最後の30分で、思わぬ落とし穴があった。

休戦を知って銃(もとより弾を充填してないものだが)を捨てようとするフィンランド兵を、銃を振りかぶって殴ろうとしたと誤解して撃ってしまうロシア兵。
銃撃してから真相に気づき、ククーシュカのもとになんとか彼を連れ帰り。
……そこからだ。
自分を久しぶりのセックスで喜ばせてくれた男を、ククーシュカは何とか救いたい。
ここで、なんと、呪術が始まるのだ。
おいおい、ここで呪術かよ?って感じに、呪術が始まるのだ。
祖母がやっていたことを、見よう見まねで。
俄シャーマンの儀式が始まる。
火を焚き、太鼓を打ち続け、犬の遠吠えを模し、息を吹きかけて風を起こす。
耳許で、振り返れ、引き返せと、話しかけ続ける。
画面には、三途の川ならぬ、ラップランドの荒涼とした山が続き、手引きの少年が現れる。
まるで、ゴドーを待つウラジーミルとエストラゴンの前に現れた少年だ。
まるで、あの少年、白い服着た……わたしが勝手に思い描くところのあの少年。
おいでおいでと少年は彼岸へ誘う。
黄泉の国へ旅立つかこの世にとどまるか。
此岸と彼岸の間でさまよう魂を呼ぶ、女の声。
生きている肉、生きている魂から溢れる、呼び戻しの声。
愛、という言葉がくすんでしまうほどの、力。
果たして。
彼は、此岸を選ぶ。

こんな恐ろしいシーンを、暗闇羊水状態で見てしまったものだから、わたしはちょっとしたトランス状態に。
ぐらり、ぐらりと、世界が揺れる。

現実に足を踏ん張って、金切り声をあげて生きてるような自分に、わずかにプリミーティブな力、原初的なエネルギーが戻ってくるような感じがする。いや、きっとこれは錯覚で、明日になればまたいつものわたしなのだろうけれど、今、この夜の時間だけ、ククーシュカという肉感的な生活感たっぷりの女に、呪術の魔法をかけられたのだ。

ラストシーン、物語は、あまりにも牧歌的な幸福のうちに終わる。
すごい台本。え? そう来るの? はあ……。
こんな強引な展開、なかなか書けない。小説よりも奇なる現実、よりもさらに奇なるフィクション。なのに、現実的だと思わせる力。
夜中に、ちょっとやられた。

明日はどんな一日だろう。
呪術なんて一切信じないわたしが、
夜中の風呂場で、すっかりまじないにかけられた。
それが何のまじないかは……わたし次第だ。
明日は、ちょっと違う自分になれるだろうか?
生きていると、面白いことだらけだ。


2009年9月14日 (月)

善き人のためのソナタ。

ベッドと移動中のビデオ鑑賞。
邪道だと思いつつ、やめられない。

「善き人のためのソナタ」
音楽の力。
言葉の力。
政治的事情の前にあっては、無力の歴史を刻んできた芸術が、小さな奇跡を起こす。
世界を変えるのは、芸術ではない。
芸術を生む人間であり、
その芸術を享受する人間であり。
そして、ラストシーンは、ひとりの人を慰撫する芸術は世界をも慰撫することを教えてくれる。

邦題は、おそらく「よきサマリア人」の話をもじっているのだろうが、あの単純なたとえ話は、この映画にふさわしくない。
大きな意味を持つ、ソナタの曲名をタイトルにするのは悪くないのだが、実際に「Die Sonate vom guten Menschen」という曲名は、聖書を連想させるものなのか?
残念ながらドイツ語に疎い。
原題は直訳すると、「他人の生活」だそうだ。

2009年9月12日 (土)

ИТАЛЬЯНЕЦ

邦題、「この道は母へとつづく」。
原題直訳は、「イタリア人」。
孤児院の少年にイタリア人の里親が決まる。
それは、暖かい住処と食べ物に困らないということ。
この話が決まってから、「イタリア人」と呼ばれて同じ境遇の子どもたちから羨望のまなざしを受けるワーニャだが、彼は本当の母に会うことをあきらめることができなかった。

「父帰る」と並んで、ロシア映画に出てくる少年は、どこまでも逞しく、愛を求める力の強いがゆえに、誰の助けも借りずに大人になっていく。古くは、タルコフスキーの「僕の村は戦場だった」にも、「アンドレイ・ルブリョフ」にも、こんな少年たちが生きていた。

求めよ、さらば与えられんを、小さな心と体で体現したワーニャの、母と邂逅する際の顔が素晴らしい。
何の説明もない。そこにただ少年がいて、何も演出されない。日本映画ではほぼありえないことだ。

文学、演劇、映画と、わたしを魅了し続けるロシアは、それと同時に混迷の国でもある。
アンナの後も、ジャーナリストが、弁護士が、人権活動家が、暗殺され続けている。
なんという国だ。
……米原万里さんが、もし少し生きていらっしゃったら、どうおっしゃるだろう。

2009年7月19日 (日)

「チェンジリング」

二曲目の構想と歌詞をあげようとするも、自分に火をつける何かに欠ける。
このところ、過去の名作ミュージカルナンバーを聞きすぎていて、
何か自分が練り直し作業をしているような思いに囚われたからか。
昼間、若き演劇人と会った時の自分に嫌気がさしたからか。

3時半にベッドに入り、
すでにMacのディスプレイを眺めすぎてしょぼしょぼした目で、
映画を見始める。
薦められていながら見逃した「チェンジリング」。
見始めると、ドラマの虜になり、見終えるとすっかり朝。
2時間半で、これだけのことを語ってしまう映画。
映画の時間。
連れ去られて2時間半。
誕生は悲劇の幕開き。生きているだけで悲劇。
悲劇のただ中で、喜びや笑顔を見いだそうとする人たちの、
凛とした立ち姿。
時に笑顔。
実体を失いかける愛情。
希望として蘇る愛情の実体。


わたしは、自分の仕事で、
次に立ち向かう2時間で、
その次に立ち向かう2時間で、
何を語るのか。
呆けたように考える時間は、
無駄に過ぎていく。
今日も、朝がきた。
空はすでに、白と空色に塗り分けられた。


タゴールの短詩、二篇。

「すべての嬰児は神がまだ人間に絶望してはいないというメッセージをたずさえて生まれて来る。」

「水に住む魚は黙し、地上の獣はかしましく、空の小鳥は歌う。しかし、人間は彼の中に海の沈黙と地のざわめきと空の音楽を持っている。」

2009年5月17日 (日)

三つの夜。

DVDで「Into The Wild」を見る。
ショーン・ペン監督 エミール・ハーシュ主演。
家族に世間に世界に自分に、疑問を持ち、文明を逃れた青年。
きっと感情移入する人とか、現実離れした他人事と思う人とか、青臭さへの冷笑とか、そんな感じの感想にわかれるのだろう。
感想なんてどうでもいいや。
ああ。
主人公の気持ちなど理解できない。
わたしは理解するには歳を取りすぎた。
社会人などと呼ばれる者になるための努力を重ねてしまった。
簡単に感情移入などできない。
だって、わたしは40代まで生きてしまったから。
そして、恐ろしい。
一人の青年を軽くのみ込んでしまう自然が恐ろしく、
目を開けていられない。
俯瞰するカメラは、神の目線なんかじゃない。
神の目など、どこにも届いてはいない。

翌日、ケラさんの芝居を観る。
神なんてこれっくらいのもんでしょ?
と、笑い飛ばす作家。
と、悲観する作家。
そして、うだうだと面倒な人間たち。
小市民の懊悩を演じると、山崎さんは何てうまいんだろう。
演劇的遊び心、すさまじく。
ラストシーンにはあらゆる想像力を刺激され。
忘れ得ぬ風景になる。
神様なんて、いない、いない。
さっきあんなに祈ったのに。
祈る……なんて信心を起こしてしまったのに、
もうそこには、屋根もない。
ずぶ濡れ。
……すごい本を書くな、ケラさん。

ようやくMILKを見る。
わたしにとってショーン・ペンは、
知性と野生を兼ね備えた最も美しい男。
そして、知性と野生を兼ね備えた、理想的な俳優。
のんきにそんなことを思う、小さな日本の演劇人のはしくれは、
彼にまた打ちのめされる。
なんとかシステムとかなんとか効果とか、もうどうでもいい。
このところずっとそう思う。
他者になりきるとか、自分を生かすとか、憑依したり冷静だったり……なんか、どうでもよくって……ただそこに、自分と演ずべき他者がいるということ。
出会うこと、葛藤すること、生きること。
自分と他者ってことは、二人で、二人はすでに社会で、演じるってことは社会を内包している。
……あんなすごい表現を見て、なんでわたしはこんなつまらないことを書いているのか。
彼の映画をほぼすべて見ているけれど、
彼はそのたび、別の人間の人生を生きている。
喜怒哀楽の表現さえ違う。顔も違う。
ヘアメイクで変化は出せても、表情筋まではいじれないのに。
それは、もう、ひたすらに、彼が他者の魂の、いちばん大事なところを抽出しているからだろう。
観察と、分析と、それを支える知性。
そして、人間と世界に対する、深い絶望と、深い愛情。

演じるショーンにうちのめされ、
思い切りドラマにのめりこみ、
ハーヴィー・ミルクの人生に少し自分を重ねた。
マイノリティーとしての40年間、
人生を変えたいと願う40歳、
奔走し続ける愛の40代。
まだ何にでもなれると信じていた少年時代が蘇る40代。
夢を心身の全力で支える40代。
ホームムービーや記録映像を多様するガス・ヴァン・サントの映画手法が、
かつてを生きた人の息づかいを、手で触れられる距離に運んでくる。
それが愛おしく。それが痛ましく。
映画館の闇の中で、
またひとつ、
自分に絶望し、
世界に絶望する。
こんな自分で、こんな世界を生きるには、
悔いをより少なくするには、
生きた、って実感するには、
とりあえず、愛し続けるしかないなと、
考える。
とりあえず、愛してみる。
……それにしても、
わたしは絶望という言葉を、
いつからこんなに使うようになったのか?

2009年4月27日 (月)

教える心得、教わる心得。

iPod Touchを買ってから、なかなか見る時間のとれないDVDを、持ち歩いて見るようになった。
便利だし、これが以外と集中して見ることができる。
今日は、電車に乗る時間が往復で4時間。
じっくり、たっぷり。
薦められていた「カンフー・パンダ」をようやく見る。
……いやあ、ただの娯楽映画じゃすまない、なかなか深遠なものだった。

「教える」立場の心得。それは、教える相手の可能性を誰より信じていること。
言葉にすると簡単だけれども、これは大変なこと。どれほどか体力と精神力が必要だ。
そしてもう一つ、相手の個性に寄り添った指導をすること。
……これはずっとわたしが信念を持ってやり続けてきたことだ。
確かに、この作業はそのまま、相手を信じることに直結しているのだろうな。

「教わる」立場の心得。
教わる対象が、ただひたすらに好きであること。
ただひたすらに、やりたいと思っていること。
導く人を信じること。

……まったく、教える教わるという関係は、それだけでなんとも深遠なことだ。
でも、今のわたしは、そのことにウキウキワクワクする。
信じてもらえるまで、まずはわたしが、相手の可能性を信じて突き進む。

自分が夢や目標にそぐわない者だと落ち込むパンダに、
導師が言う。

君は「これまで」と「これから」を心配しすぎる。
明日は未知のもの。
今日は天からの贈り物(present)。
だから現在(present)なんです。

「これまで」と「これから」に囚われてしまうのは当たり前。
わたしは、「これまで」に囚われず、「これから」に囚われず、贈り物である現在に輝きや意味を見つけて、みんなに渡していく立場なんだと思う。

いやはや、「カンフー・パンダ」にはびっくり。
教わりました。

2009年3月27日 (金)

愛のむきだし。

とんでもなく面白い映画を観る。
魂抜かれて、終映後、呆然。
丸々4時間。
聖も俗も清も濁も……ああ、なんだか美しかったり汚かったり許せなかったり分からなかったり変態だったり高尚だったりエロだったり最低だったりくだらなかったり憎悪だったり憧れだったり軽蔑だったり尊敬だったり怒りだったり許しだったり懇願だったり哀願だったり勃起だったりレズだったりパンチラだったりマリアだったり盗撮だったり教会だったり暴力だったり静謐だったり混沌だったり爆弾だったり悟りだったり発見だったり血だったり涙だったり……ああ、もうわからん、もうわからんほど、あらゆるものが、むきだしてむきだして、愛に向かう。
主演の満島ひかり、こんな役に出会えて幸せだろう。
可憐な外見に震える魂と大きなマグマ。
主演の西島隆弘、
なんて柔らかなハート、なんて強靱なハート。
そして、躍動し、沈潜し、興奮する肉体。
安藤サクラの若き才能は、まぎれもない悪を演じて信じさせて、大人までも嫌な気持ちにさせるほど。
そして、何よりも、脚本監督の園子温さんなのだろうなあ。
なんだか感動しすぎちゃって、びっくりしすぎちゃって、才能に嫉妬する暇もないや。
だって、見せられたものが、世界ぜーんぶって感じなのだものな。
世界は、ひどいね、ずいぶんと大変だ。
でも、やっぱり、愛なんだな。
愛だよ、愛。
子どものように、うんうんとうなずく。

東京ではK's cinema(新宿)でしばらく観ることができます。


2009年3月 3日 (火)

珠玉の短篇映画たち。

科学映像館というサイトで、チェチェン戦争と戦渦に巻き込まれた子供たちの映画を見ることができる。

子どもの物語にあらず

春になったら

衝撃的な二作品を監督、演出したのは、ザ―ラ・イマーエワというチェチェン人の女性ジャーナリスト。
履歴を見ると、わたしと同年の生まれだった。
これらを製作、制作、発表する勇気に、敬服する。

・同じサイトで、「音楽の先生」という映画を見ることができる。
演奏旅行中に開戦を迎えてしまったユダヤ人音楽家が、あえなく捕虜としてロシアに拘留された。
ウズベキスタンに強制移動させられ集団農業を営む朝鮮人の村が、画策して、彼を釈放させ、自らの村に住まわせた。
音楽を教わりたいからだ。
ユダヤ人が、朝鮮人に音楽を教える。
音楽でつながりあう。
そしてこれは、ノンフィクションだ。
リチャード・パワーズの「われらが歌う時」は偉大なるフィクションだったが、
この映画は、小品ながら、音楽の喜びを最大限に伝えてくれる。

2009年2月24日 (火)

ショーン・ペンという俳優。


彼が演じると、その人は、少し過剰になる。
その過剰さが、時に脚本の穴さえ埋めて、一人の人間像がリアルに立ち上がり、観客席の闇にいる人を、別の人生へと牽引していく。
そして、その過剰さの裏に、静かな絶望と、静かな愛が、ほの見える。
そして、映画館を後にすると、立ち上がった役の人物像の裏に、知的で冷静な俳優が見えてくる。
知的で冷静な俳優は、はにかみながら、自分の姿を消している。
でも、いつも青白く燃えていて、激しく人間を愛している。
さっきまで信じさせてくれた別の人生は、彼という人間を土台に立ち上がったフィクションであったことに気づく。
……それが、とっても当たり前なことだということに、気づく。

俳優が役を演じるというのがどういうことか、
彼はものすごく原初的に思い出させてくれる。
ショーン・ペンという俳優。
もう20年、敬愛してやまない人。

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