「クロッシング」の後に。
昨日のオーディションの後、どうも気分がすぐれなかった。
それはやはり、短い稽古時間しかないのに重いテーマの戯曲を選んだことから来ていた気がする。
自分がこの人生で経験したことのない悲劇、絶対遭遇したくない惨劇、そういうものを安易に扱うことを嫌う自分が、自分を責めていた気がする。
あえて選んだことなのに、やはり後味が悪かった。
限られた稽古時間の中で、自分がやれることをかいかぶっていたような気がする。
そんな時に、誘われるように「クロッシング」を見た。
打ち合わせと打ち合わせの間に3時間隙間があって、ぴったりはまるのが偶然「クロッシング」だったのだ。
見終わって、誰かに導かれてこれを見たような気がした。
エミール・クリストリッツァの「アンダーグラウンド」以来の衝撃だった。
脱北の話。
主演のチャ・インピョ、子役のシン・ミョンチョルをはじめ、俳優たちの演技が素晴らしい。
ドキュメンタリかと思わせるリアリティー。
深い愛情、深い悲しみ。
刻まれた苦悩の皺が、虚構だということを忘れさせる。
壮絶な、現実。
すぐそこにある悲劇。
今まさに痛んでいる人たち。
シェイクスピアの歴史劇を演じることだって、実は変わらない。
薔薇戦争の悲劇は、遠いようでいて、今も繰り返されている。
でも、今、そこにある悲劇を演じることは、
俳優にとって、どれほどか負荷が大きい。
主演のチャ・インピョは、クランクイン前、ロケハンに参加する時のことをこう書いている。
私はこの映画で脱北者の役を任せられた。 しかし、私が脱北者について知っていることは、数日前にインターネットで読んだある脱北者が書いた手記と、何冊かの本、そして脱北者のスタッフと交わした話くらいだ。 あと2ヶ月も経たないうちに撮影が始まるというのに、私が脱北者を演じるには何かが決定的に不足していた。 空腹、絶望、切迫感、生き別れ、死... この世で人間が経験するであろうすべての苦痛を、一挙に網羅したかのような彼らの辛い心情を、どう表現したらいいのか...それは頭で理解するものではなく、心臓で感じなければいけないものだ。しかし、到底できそうになかった。
こうしてスタートした俳優の仕事に、わたしは今日、打ちのめされた。
これを立ち上げた監督やプロデューサーにも、
スタッフひとりひとりに、
この映画にまつわるすべてに、打ちのめされた。
そして、断片的な報道でしかしらなかった北朝鮮の実際。
あってはならない、現実。
現実はあまりに不公平で、理不尽な悲しみに満ちている。
そんな中にいて、そこにある魂の美しさ、人を愛する気持ちの崇高さは、如何ばかりか。
迷うことなく、わたしは仕事をしなければ。
自分の仕事を再確認する。
小さなことに落ち込んだり傷ついたりする暇があれば、
あまり残っていない自分の時間で、できることを考えて暮らそう。
できることがあるはずだ。
そばにいる俳優たちと。演出するわたしとで。
いつまでも逃げていないで、本を書く必要もある。
オーディションをやっていて自分に嫌気がさしたのは、
人に嫌われることを、自分自身が避けて通ろうとしているのに気がついたからってこともある。
……わたしが人を愛するのは自由だ。
……でも、愛されることは期待しないこと。
わたしが世界を愛するのは自由だ。
でも、その見返りを期待しないこと。
愛し尽くすだけで充分と、開き直ること。
そして、そこに、全力を傾けること。
命がけであること。