2008年2月26日 (火)

40代半ば、初眼鏡。

■目がかすむ、肩が凝る、頭痛がする。
心配になってMRIとCTを撮ったのは、一昨年の年末のこと。
問診では「明日の記憶」に出てきた若年性アルツハイマーのテストが出てきたりして、ちょっとドキドキ。
結果。
偏頭痛の原因は脳内には見あたらず、眼精疲労と、眼精疲労による肩凝りが原因ではないかという診断だった。
その日はすぐに眼鏡をつくるつもりが、すぐにのど元過ぎてしまった。

■目のかすみ、肩の凝り、頭痛、さらに悪化。
こりゃもうだめだと、ようやく眼鏡屋さんへ。
渋谷で、駆け込み。
検眼してみると、右目が0.1左目が0.9…………え?…………両方1.5だったのに。
この左右のアンバランスと、見えるつもりで目を酷使する仕事をしていたことは、確実にわたしを蝕んでいたに違いない。
フレームを選ぶのもドキドキ。
お店の人の協力を得て、あれをかけ、これをかけ。
どれをかけても「わたしじゃない!」ってところから、ようやく「なんか……自然?」と思えるものを見つけるまで、ずいぶん時間が必要だった。
でも、眼鏡って高い。わたしがたまたま入った店は、フレームがほぼ3万円以上。レンズを入れたら、結局6万7千円。
引っ越しを控えて出費の続くところに、またお高いお買い物。うーん、いいか、これで安心と健康が買えるなら。
眼鏡をかけて自転車で街を走ると、久々に見るくっきり世界。
上目遣いでフレームをよけ裸眼世界、真っ直ぐ前見て眼鏡世界。
ぼやけた世界と輪郭のはっきりした世界を交互に楽しんだ。
帰宅して鏡を見ると、なんだか秀才さんみたいな顔に笑ってしまう。

■幼い頃から眼鏡をかけている人に言うと笑ってしまわれそうだが、眼鏡を買うことが今日の一大事件だった。
「はじめて」って、こういうことだよなあ。
わたしは「はじめて」を教えることの多い職業だ。一昨年から続けている市民ミュージカルの活動でも、わたしに導かれて老若男女が「はじめて」を楽しんでいる。その感動は、確かにわたしを感動させ、自分の初心を思い出す。
いつまでも、ウブな心で居続けたいなあ。
ウブでいると心が痛みすぎて生きているのが辛くなるようなことばかりだけれど、でも、上手に、自分のウブな部分を守っていきたい。

2008年2月13日 (水)

喪ったもの。

7年ぶりに引っ越しをすることになった。
空いた時間、苦手な片付けに追われる。
すると。
押し入れから、物置から、部家のあちこちから、自分の書き散らした言葉たちが顕れる。
20代30代、ワープロで書くかたわら、レポート用紙に、集計用紙に、便せんに、白紙に、原稿用紙に、大学ノートに、ポケットノートに、広告紙の裏に、とにかく書き続けた言葉たち。
考えるときは、書きながら考えた。
悩むときは、書きながら悩んだ。
その筆勢と、選んだことばたちが、過去の時間を連れてくる。
かつての自分が仄かに立ち上がってくる。

他者を導いたり、若い後進たちに教えたりと、自分自身が揺るがない存在にならなければならない年齢になり、
わたしは揺らぎながら書くことを忘れてしまった。

かつてのわたしが書いた瑞々しい言葉たちを前に、獲得したものと喪失したものを思う。Carver_3


右のノートは、レイモンド・カーヴァーのもの。
社会に当たり前には適応できなかった彼は、
あまりに早く逝ってしまったが、
その言葉は、風に揺らぐ水面のように、
輝きを放ち続けた。
ゆらゆらと、何かの形におさまることなく。

2007年6月 5日 (火)

未だ五月の葉っぱとして。

■日々がめまぐるしく過ぎていったからこそ、毎日少しずつでも書いておけばよかったと思うときがある。
仕事が思いがけず早過ぎるほど早く終わって、飲みに行く一群に背を向けて、まだ陽のある街をゆっくり歩く。ゆっくり歩くのは久しぶりかもしれない。初夏を匂わせる風が吹いていたり、ここが旅先であったりで、気がつくと、自分の来し方を思ったりしている。
その時間時間が「現在」である時には、書くほどもないと思えたことが、「過去」になってみると、何か少し匂いたってきて、書いておけばよかったと思える類のことに姿を変えたりする。 ■自分のHPを開いたのは2000年の5月だった。ワープロ愛用者がはじめてMacを使い出してすぐのことだ。iMac→iBook→PowerBookと三台をおしゃかにしてからWindwsに乗り換え、すでに自分のHPを更新する術を失い、新たに作り変える気もなく放置していた。1年ぶりくらいにのぞいてみると、ちゃんとかつての自分の文章にたどり着けて、当たり前のことに少し驚く。 わたしはこんなことを書いていた。 「また五月がやってくる。
 四月を迎えて、また花の季節がやってくると思ったように、新緑の季節がやってくる。五月の葉っぱはまだ成長の途上。人の手の大きさで言えば小学校五年生くらい。葉と葉の間からまだまだ空が垣間見える。その緑はまだ淡く薄く頼りなく葉脈だってはかなげで、陽の光は思うさま彼らをすり抜けてくる。
 五月は木漏れ日のいちばん美しい季節だ。  自分が自らの人生でまだ何も成し遂げていないと落ち込むよりは、歳がいくつであれ、5月の葉っぱのような人でありたい。途上であるからこその、美しさ、軽やかさ、風通しのよさ。
 ざわめく心をひとり鎮めて、伸びゆくエネルギーに変えていきたい。5月の葉っぱのように。」 かつて自分の書いたことが、今の自分に優しかった。
そして、変わらない自分がいるのに、書かない間に、少しずつ何かを失い続けてきた自分に気づきもした。失ってきた経過を、書き留めてきてもよかったのではないかと思った。 38歳の自分が、45歳の自分に、そう勧めてきたのだ。 また書いてみようかと思う。 アイザック・ディネーセンの言葉に立ち返る。
「希望もなく 絶望もなく わたしは毎日少しずつ書きます」
38歳のわたしより、45歳のわたしの方が、この言葉を痛ましく味わえる。虚しい時間の経過が、ことばの意味をより際立たせるのだ。 shakespeare_2_1.jpg