2015年8月27日 (木)

二列目の人生 隠れた異才たち-池内紀(著)

2003年読了時の文章。当時のわたしが書いているように、
池内紀さんは、一列目にいるのに、二列目の心を持っていらっしゃる。

この本が、本棚に並んでいるだけで、
その背表紙が見えるだけで、わたしはちょっと穏やかな気持ちになれる。

自分の人生を、自分の居場所が何列目かで測ろうとする愚かさに気づかせてくれる。
自分らしく生きることは、自分の人生を生ききることであって、他者との比較ではないことを思い出させてくれる。
いや、そういう類の、人生につきものの嫉妬や痛みから、軽やかに救い出してくれる。
時折手に取りたくなる、素晴らしい本だ。


この本には、16人の人生が詰まっている。

もう一人の南方熊楠、もう一人のラフカディオ・ハーン、もう一人の棟方志功、もう一人の宮沢賢治、もう一人の魯山人……。

後書きで著者は語る。 「勝るとも劣らない資質と才能を持ち、同じ時に同じ場で力量を競っていたこともある。それが一方は文化勲章や評伝や全集に飾られ、もう一方は忘れられた。何がそのようにさせたのか」。
偶然知った無名の人生のあったところに、著者は自分の体を運ぶ。記録はほとんどないので、その土地を自らの目で見、関係者をたどって、直接話を聞いていく。

この知の旅のきっかけになった、博物学者、大上宇一。
慶応元年(1865)生まれ。小学校に入ったが、貧困のため二年余りで退学。
「学を好むは天性にいでて、しかも理学を好む。字引によりて独学す」とは、大上本人の書き残したことば。
幼い頃病弱で自ら薬草採取に歩いたことをきっかけに植物研究に目覚め、24歳の時に「本草綱目」五十二巻を有り金はたいて購入し本草学を修めるも、「四百四病より貧ほど辛いものはないとは此のことか。一世の内に希望を成就することを得ず」。
それでも、自らの足をつかって植物の採取研究を進め、29歳の時、手書き手彩色の「そふれぐさ」を編術。植物352種を収め、和名、科名、属名、方言名、産地、採集地、花と実、葉茎、根の形態をことこまかに記す。
日本の植物分類学がようやく黎明期を迎えたばかりのことだ。
大上はそうして、生前千冊以上の冊子を書きためた。
死後、居間と言わず土間と言わず、うず高く積み上げられていた冊子の中に、書き置きが残っていた。
「……だれかが年に一回でもいいから標本や著作など虫干しをかねて展示でもしてくれればありがたい。そうした中で朽ち、反古となることは本望だ」。

大上氏の章を読んで心に残るのは、貧しさに邪魔されながらも、家居し独学し、植物学を貫いた男の時間と、もうひとつ。著者池内さんの、ゆうるりとした感動だ。
その目に焼きついた、現存する大上の手書き著作、その分厚い紙の束。ゆかりの地に滞在する二日間で、もうすでに百年の知己をむすんだ気がするのはどうしてだろう? と自らに問いつつ、また大江ゆかりの地を眺める。その印象を書き留めることばに、静かな感動が宿っている。

この本は、大声で無名の異才を讃えたり、再評価を力説したりはしない。
貧しさゆえに無名で終わった大上をはじめ、名声にまったく興味を示さなかった者、
我が道を行くために時流に背を向けた者、
チャンスに恵まれなかった者。
それぞれの理由で世に隠れた「意中の人たち」と出会っていく旅の記録から立ち上がるのは、与えられた人生を行き通すことへの共感、人生への愛情だ。

確かに、生きていた本人たちは、隠れるために生きたわけではない。
より自分らしく生きようとして、結果的に隠れた。
どの人生も、平穏からは遠く、険しく厳しかった。
でも、それらの人生が、再び池内さんの目にとどめられていくたび、かけがえのない人生行として柔らかに祝福されていく。

今を生きる池内さんのゆるやかな感動を通して。
ドイツ文学の翻訳者として出会った池内さんの著作を、わたしは好んで読んできた。
その学識に依拠する広い視野から、細部に至る細やかな愛情。伝えてくれる言葉はおおらかでのびやか。少年のように自分の興味に一直線。そして、すべての特権的な視線から離れて、在野の心で、庶民の目線で、世の中を眺めていらっしゃる。
この素晴らしい人生の先輩は、言ってみれば、一列目にいるのに、二列目の心を持った人だ。
しみじみと、深々と、一冊を味わった。(2003/6/17)

2015年8月25日 (火)

「日本が見えない」竹内浩三全作品集

もう10年以上前のことだが、心の動いた読書の後に、しっかりメモをとっていた時期があった。
その頃の文章を、一気に見つけたので、 自身の記憶のために、また、読書の情報を探す方のために、少しずつブログにあげておこうかと思う。

あえて書き直さず、10年以上前のわたしが書いたことを、そのまま載せていくことにする。

「日本が見えない」   竹内浩三全作品集


溢れることば。詩。そして、それを枯らしたもの。

竹内浩三は、23歳のときに、フィリピン、ルソン島で戦死。
誰も見届ける者のない死であった。
この全作品集には、小学校時代からの様々な彼の書き遺したことばが収録されている。走り書きやいたずら書きのようなもの、詩あるいは小説といった作品の形になったもの。漫画や、日記、手紙の数々。


こんなにもことばに溢れた青春を、わたしは知らない。

ノートに手帖に、原稿用紙に、本の余白に、饅頭の包み紙に、ほとばしるように書き付けられた、ことば、ことば、ことば。
綴られた文字に書き直しはほとんどない。
推敲の跡が見えない。
彼の心に何かが興ると、同時にそれはことばとなり、同時に文字になっている。文字は彼の心の写しだ。そしてその写しが、今を生きるわたしを、ドキドキさせワクワクさせ、驚かせ、感動させる。わたしは「詩」に出会う。


教室で、青空の下で、汚れた下宿で、兵舎の寝床で、書き続けられたことばは、美しかったり、おっかしかったり、痛ましかったり、青春のすべての写しになっている。それら膨大なことばを一つ一つ追いかけているうち、次第に胸がつまってくる。

こんな素晴らしいことばの泉を枯らしてしまったものを改めて恨む。

小学校中学年から漫画回覧雑誌を作り始めるものの、ちょっとした風刺記事がもとで、1年の発行停止。それでも次から次へと発行する。中学時代には謹慎処分をくらうことにもなるが、それは面白おかしい日記になる。

日大専門部映画科に進学しての東京暮らし。酒と煙草と珈琲と。文学と映画と音楽と。そこではいつも金欠に泣き、父母を失ってから献身的に自分を支えてくれる姉に、無心する。年相応にだめな自分と対峙して、またことばが溢れる。恋をしたら人並みに自らの不可解な心の作用に戸惑い、「おれ自身よりも、お前が好きだ」なんて口説き文句を口にする。

出征の日は、チャイコフスキーの「悲愴」を背中を丸めて聴き、外で待つ見送りの人に「最終楽章まで聴かせてくれ」と頼みこむ。

陸軍の筑波飛行場では、軍事演習に明け暮れる中、「筑波日記」を書き続けた。回れ右はワルツでも踊っているようで楽しい気さえしたと書いていたり、演習中にラジオから流れるメンデルスゾーンに聞き惚れ、風呂からあがってカルピスを飲んだように、甘い音が体に心地よくしみこんだと書いていたり……。
これは、「ソノトキ、ソノヨウニ考エ、ソノヨウニ感ジタ」ことを書き留めた日常の記録なのだ。

検閲を逃れるために、この日記は、宮沢賢治の詩集をくり抜いた中に埋め込まれて、姉の元に届けられた。
そのことばの泉が枯れる時にも、誰も読むことは出来ないが、きっと、懐に、鉛筆と文字に溢れた紙があったに違いない。


「骨のうたう」の中で、戻ってきた白い箱の中の白い骨がうたう。

「帰ってはきましたけれど 故国の人のよそよそしさや……骨は骨 骨を愛する人もなし……なれど 骨はききたかった がらがらどんどんと絶大なる愛情のひびきをききたかった……故国は発展にいそがしかった 女は化粧にいそがしかった ああ戦死やあわれ……国のため 大君のため 死んでしまうや その心や」


萩原朔太郎の詩集の目次には、こんな草稿が走り書きされていた。

「戦争は悪の豪華版である 戦争しなくとも、建設はできる」

これは「戦争」「悪」「戦争」「建設」のところを伏せ字にして、自ら発行する文芸誌に載せたものだった。

彼は、見通していた。

この人が生き続けていたら、いったいどんな作品をわたしたちに届けてくれたのだろうと、どうしてもそう考える。
彼はこう書いている。

「生まれてきたから、死ぬまで生きてやるのだ。ただそれだけだ」

彼の時間は、奪われた。


高価な本だが、多くの人に読んでほしい。また、全国の図書館に置かれるようにと願う。(2003/6/13)